兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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残り試合からはダメかなと思っていましたが、
ドラゴンズが残り4試合を2勝2敗でも、阪神、巨人は1敗しか許されないと。
しっかし、首位でも勝率5割6分って、どれだけパ・リーグにやられてるんだか・・・。
今日のNHK「歴史秘話ヒストリア」は秀吉の手紙の話。
秀吉の手紙(代筆もあるので直筆とは限らない)はたくさん残っているのですが、
意外といえば意外なんですよね。
徳川の時代になっても秀吉からの手紙を捨てずに残し続けておいたということですが、
そこは秀吉が天下を統一した(誰もが秀吉の家臣になった)からかもしれません。
(秀吉は最終的には家康の主君でこそあれ敵ではない)
秀吉の手紙に限らず、昔の文章独特の良さというのもあるので、
機会があれば紹介していきたいなと。
ドラゴンズが残り4試合を2勝2敗でも、阪神、巨人は1敗しか許されないと。
しっかし、首位でも勝率5割6分って、どれだけパ・リーグにやられてるんだか・・・。
今日のNHK「歴史秘話ヒストリア」は秀吉の手紙の話。
秀吉の手紙(代筆もあるので直筆とは限らない)はたくさん残っているのですが、
意外といえば意外なんですよね。
徳川の時代になっても秀吉からの手紙を捨てずに残し続けておいたということですが、
そこは秀吉が天下を統一した(誰もが秀吉の家臣になった)からかもしれません。
(秀吉は最終的には家康の主君でこそあれ敵ではない)
秀吉の手紙に限らず、昔の文章独特の良さというのもあるので、
機会があれば紹介していきたいなと。
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ガチの方が価値が高いだろう。
横綱の白鵬を見ていると「負ける感じがしない」のですが、これは見ていないと味わえない感覚でしょうね。前にも書きましたが、「双葉山の69連勝」は現在とは年間の場所数も1場所の取り組み回数も違っていたときの記録で、当時は3年近く負けがなかったのですが、文字で見ていてもいまいち実感がわきません。こういうものは見られるときに見ておかないとね。
さて、ぼっこ氏からのリクエストですが、「信長の野望・天翔記」くらいで武将の知識が止まっている私が悪いのか、白井入道浄三って知らないのよね。『戦国人名事典』を初めとする手元の資料にも記載がありませんし。
上杉謙信に勝った、というのもサッカーで言うところの「マイアミの奇跡」みたいなものじゃないかと。
1996年のアトランタオリンピックの1次リーグで日本がブラジルに1-0で勝利したのが「マイアミの奇跡」。
もちろんオリンピックなので、選手には年齢制限があります(オーバーエイジ枠があるが、W杯のように自由にメンバーが組めるわけではない)。ブラジルに勝ったとはいえ、日本は1次リーグで敗退し、ブラジルは1次リーグを突破し、3位になりましたから、(そうでなくても)これだけで日本がブラジルより強いということにはなりません。日本のサッカーにとっては栄光の歴史ですが、ブラジルのサッカーの歴史には残らないでしょう。
謙信も常勝不敗であったわけではなく、小田原城を囲んで落とせませんでしたし(関東管領就任のデモンストレーションと見るべきか)、能登七尾城の攻略にも一年近くかかっています。謙信に限らず、上杉軍というのは野戦にめっぽう強い一方で攻城戦がうまくありません。謙信死後の御館の乱の恩賞をめぐって新発田重家が反乱を起こしますが、景勝はこの鎮圧に六年も費やしていますし、関ヶ原の戦いでは直江兼続が最上家の長谷堂城を大軍で囲みながら落とせませんでした。
攻城戦がうまいというのは秀吉などごく一部の武将だけであって、ほとんどの武将は攻城戦に苦労して当たり前なのですが。城攻めで攻城側が損害を受けて兵を退くというのはよくあることで、それをいちいち負けととらえていてはきりがありません。戦勝報告で味方の損害を小さく、敵の損害を大きく言うのもよくあることです。
横綱の白鵬を見ていると「負ける感じがしない」のですが、これは見ていないと味わえない感覚でしょうね。前にも書きましたが、「双葉山の69連勝」は現在とは年間の場所数も1場所の取り組み回数も違っていたときの記録で、当時は3年近く負けがなかったのですが、文字で見ていてもいまいち実感がわきません。こういうものは見られるときに見ておかないとね。
さて、ぼっこ氏からのリクエストですが、「信長の野望・天翔記」くらいで武将の知識が止まっている私が悪いのか、白井入道浄三って知らないのよね。『戦国人名事典』を初めとする手元の資料にも記載がありませんし。
上杉謙信に勝った、というのもサッカーで言うところの「マイアミの奇跡」みたいなものじゃないかと。
1996年のアトランタオリンピックの1次リーグで日本がブラジルに1-0で勝利したのが「マイアミの奇跡」。
もちろんオリンピックなので、選手には年齢制限があります(オーバーエイジ枠があるが、W杯のように自由にメンバーが組めるわけではない)。ブラジルに勝ったとはいえ、日本は1次リーグで敗退し、ブラジルは1次リーグを突破し、3位になりましたから、(そうでなくても)これだけで日本がブラジルより強いということにはなりません。日本のサッカーにとっては栄光の歴史ですが、ブラジルのサッカーの歴史には残らないでしょう。
謙信も常勝不敗であったわけではなく、小田原城を囲んで落とせませんでしたし(関東管領就任のデモンストレーションと見るべきか)、能登七尾城の攻略にも一年近くかかっています。謙信に限らず、上杉軍というのは野戦にめっぽう強い一方で攻城戦がうまくありません。謙信死後の御館の乱の恩賞をめぐって新発田重家が反乱を起こしますが、景勝はこの鎮圧に六年も費やしていますし、関ヶ原の戦いでは直江兼続が最上家の長谷堂城を大軍で囲みながら落とせませんでした。
攻城戦がうまいというのは秀吉などごく一部の武将だけであって、ほとんどの武将は攻城戦に苦労して当たり前なのですが。城攻めで攻城側が損害を受けて兵を退くというのはよくあることで、それをいちいち負けととらえていてはきりがありません。戦勝報告で味方の損害を小さく、敵の損害を大きく言うのもよくあることです。
「戦国IXA」と「やきゅつくONLINE2」しかやっていません。
「戦略三国志」はキャラデリ。最後まで何をしたらいいのか、何が楽しいのか意味不明のままでした。
「やきゅつくONLINE2」はルーキーリーグの第1ペナントが明日で終了、
ですが、明日から一泊で出張なんですよね。結果だけメール通知してくれないものかw
怒涛の7連勝で2位になりましたが、5位くらいまではすぐ入れ替わりそうな激戦。
「戦国人物紹介」は次が長野業正、上泉秀綱で、そのあとは上杉家に入ります。
どういう構成にしようか思案中です。
紹介する人物はできるだけ増やしたいと思っています。
いまのところ簡潔にするとして、40人くらい・・・武田家を超えてしまうなw
「戦略三国志」はキャラデリ。最後まで何をしたらいいのか、何が楽しいのか意味不明のままでした。
「やきゅつくONLINE2」はルーキーリーグの第1ペナントが明日で終了、
ですが、明日から一泊で出張なんですよね。結果だけメール通知してくれないものかw
怒涛の7連勝で2位になりましたが、5位くらいまではすぐ入れ替わりそうな激戦。
「戦国人物紹介」は次が長野業正、上泉秀綱で、そのあとは上杉家に入ります。
どういう構成にしようか思案中です。
紹介する人物はできるだけ増やしたいと思っています。
いまのところ簡潔にするとして、40人くらい・・・武田家を超えてしまうなw
サッカーの新生日本代表がスタートしました。
得点を決めた香川真司(独・ドルトムント)いいですね。まだ21歳。次もその次も楽しみです。
ゴール前で、DF二人を置き去りにして突破するシーンあたりは高いセンスを感じさせました。
新監督が指揮をしなかった初戦が、新生日本代表の一番いい試合だったと言われないようにw
次は火曜日。松井大輔が見られないのが残念。
■コラム 名前の話2 官職を自称する人々
原美濃守(虎胤)、馬場美濃守(信房)、秋山伯耆守(信友)などなど、旧国名に守(かみ)を付けた名前をよく聞きますが、これってなに?
奈良時代や平安時代の律令制度(律は刑法、令は行政法・民法)に由来しているのですが、律令制度ではお役所の役職が四階級に分かれていました。順番に「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と言いますが、お役所ごとにあてはめる漢字が異なっていました。 このうち、各国に置かれた地方官を国司(こくし)と言って、国司の場合は順番に「守」「介」「掾」「目」という表記がされていました。
中央の八省(中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内)では、「卿」「輔」「丞」「録」で、石田治部少輔(じぶしょうゆう、三成)とか大谷刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう、吉継)、本多中務大輔(なかつかさたゆう、忠勝)などと言いますよね。
八省の下に寮というのがあって、寮の役職は「頭」「助」「允」「属」となっています。『忠臣蔵』の浅野内匠頭(たくみのかみ)などはこれです。この人の名前は長矩(ながのり)ですが、名前よりも「内匠頭」の役職名の方が有名ですよね。前回書いたとおり、名前はあまり呼ばないのがルールです。
さて、主君の浅野内匠頭の方は正式に(朝廷から)任命される形を取っているのですが、家臣の大石内蔵助(くらのすけ)の内蔵助は自称であり、大石家の代々の通称です。名前は良雄(よしお、あるいはよしたか)。大石良雄の場合は正式に任命されたわけではないんですね。戦国時代も江戸時代も、大名かその重臣クラスでないと、正式に任命されることはありません(通常は官位相当の制といって、従五位下と内匠頭など、官職に相当する位階とセットで任じられる)
では、原美濃守や馬場美濃守、秋山伯耆守などというのは、正式に任じられていたかというとそんなことはなく、これも自称なんですね。一方で彼らのお館様である武田信玄は正式に従五位下、大膳大夫という官位に任じられています。
大名はともかく、家臣が任官されるというのは珍しく、『信長公記』にも信長の家臣が任官されたことが記事になっています。このときは姓を賜った者もおり、「(松井)友閑は宮内卿法印、(武井)夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任(これとう)日向守になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住(これずみ)に」されたと書かれています。
秀吉の場合は、みずからが朝廷の官職である関白となり、その政権は朝廷の仕組みを利用する形を取りましたから、秀吉の家臣や大名、大名の家臣の多くが正式に任官されることとなりました(この時代まで律令制度が残っていたわけではなく、律令制度の中の官位制度の名残にすぎない)
得点を決めた香川真司(独・ドルトムント)いいですね。まだ21歳。次もその次も楽しみです。
ゴール前で、DF二人を置き去りにして突破するシーンあたりは高いセンスを感じさせました。
新監督が指揮をしなかった初戦が、新生日本代表の一番いい試合だったと言われないようにw
次は火曜日。松井大輔が見られないのが残念。
■コラム 名前の話2 官職を自称する人々
原美濃守(虎胤)、馬場美濃守(信房)、秋山伯耆守(信友)などなど、旧国名に守(かみ)を付けた名前をよく聞きますが、これってなに?
奈良時代や平安時代の律令制度(律は刑法、令は行政法・民法)に由来しているのですが、律令制度ではお役所の役職が四階級に分かれていました。順番に「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と言いますが、お役所ごとにあてはめる漢字が異なっていました。 このうち、各国に置かれた地方官を国司(こくし)と言って、国司の場合は順番に「守」「介」「掾」「目」という表記がされていました。
中央の八省(中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内)では、「卿」「輔」「丞」「録」で、石田治部少輔(じぶしょうゆう、三成)とか大谷刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう、吉継)、本多中務大輔(なかつかさたゆう、忠勝)などと言いますよね。
八省の下に寮というのがあって、寮の役職は「頭」「助」「允」「属」となっています。『忠臣蔵』の浅野内匠頭(たくみのかみ)などはこれです。この人の名前は長矩(ながのり)ですが、名前よりも「内匠頭」の役職名の方が有名ですよね。前回書いたとおり、名前はあまり呼ばないのがルールです。
さて、主君の浅野内匠頭の方は正式に(朝廷から)任命される形を取っているのですが、家臣の大石内蔵助(くらのすけ)の内蔵助は自称であり、大石家の代々の通称です。名前は良雄(よしお、あるいはよしたか)。大石良雄の場合は正式に任命されたわけではないんですね。戦国時代も江戸時代も、大名かその重臣クラスでないと、正式に任命されることはありません(通常は官位相当の制といって、従五位下と内匠頭など、官職に相当する位階とセットで任じられる)
では、原美濃守や馬場美濃守、秋山伯耆守などというのは、正式に任じられていたかというとそんなことはなく、これも自称なんですね。一方で彼らのお館様である武田信玄は正式に従五位下、大膳大夫という官位に任じられています。
大名はともかく、家臣が任官されるというのは珍しく、『信長公記』にも信長の家臣が任官されたことが記事になっています。このときは姓を賜った者もおり、「(松井)友閑は宮内卿法印、(武井)夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任(これとう)日向守になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住(これずみ)に」されたと書かれています。
秀吉の場合は、みずからが朝廷の官職である関白となり、その政権は朝廷の仕組みを利用する形を取りましたから、秀吉の家臣や大名、大名の家臣の多くが正式に任官されることとなりました(この時代まで律令制度が残っていたわけではなく、律令制度の中の官位制度の名残にすぎない)
■コラム 名前の話1 何と呼んだか?
武田家の最終回に女性を取り上げたが、「実際に何と呼ばれていたか」を調べるのは男女を問わず難しい。
現代の話をすれば、あなたがサラリーマンだとして、社長の名前は「山田太郎」さんだとする。
社内では間違っても、部下が「山田さん」「太郎殿」などと呼ぶことはない。普通は「社長」である。社内ならば「山田社長」と名前を付けて呼ばれることもまずない。これは目上の人に対して、実名を呼ぶことは失礼にあたると考えられているからである。一方、社外に出れば、部下が「うちの山田がお世話になっております」と呼び捨てにすることもあるだろう。
その山田太郎さんも、家に帰れば、奥さんには、「あなた」、もしくは「太郎さん」、あるいは「ダーリン」などと呼ばれているかもしれないし、子供には、「お父さん」「パパ」、親と同居していれば、「太郎」「太郎さん」「太郎ちゃん」などと呼ばれているかもしれない。英会話スクールに通っていれば、先生からは「山田さん」と呼ばれるだろう。
このように、社会の中での呼び方と、夫婦や親子といった家族、師弟といった間柄で、どういう呼び方をされるかは異なる。そして、それが記録に残ることはまずない。あまりに当たり前すぎること(当時の人にとって)は記録されないのである。
昔の中国でも同じことで、諸葛孔明のことを名前(諱、いみな)の「亮」と呼ぶことはほとんどなく(目上の人しか使わない)、主君の劉備でも「孔明」と字(あざな、成人してつける名前)を呼んだであろう。一般的には役職名である「丞相」と呼んでいたかもしれない。ただ、こういうことは記録に残っていることもあれば、残っていないこともあるので、もしかしたら、みんなは親しみをこめて、中国語で「チュー」さんと呼んでいたかもしれない(記録には残らない)
日本の戦国時代でも、男性の場合は、通称として(正式に任命されているかはともかく)役職名を名乗ることが多いから、武田信繁であれば「典厩(てんきゅう)殿」、原虎胤であれば「美濃守(みののかみ)殿」などと呼ばれていたと思われる。女性の場合は難しいのだが、一般的には「姫様」「奥方様」「お方様」、あるいは住居の位置、場所の名前から「北の方様」など、名前を呼ぶのは避けていたと思われる。
来年の大河ドラマの主人公であるお江(ごう)の方も名前が多く、いつどのように呼ばれていたか決めるのは難しい。小督(おごう)、江与(えよ)という名もあるし、従一位になったときは「達子」という名をつけている。亡くなってからは崇源院と名をつけられた。ちなみに、姉の淀殿の淀は「淀城」の淀であり、地名である。名は茶々と言われる。
さて、昔の書物を見て、どのように記されているのかと、実際にどのように呼ばれていたかはまた別である。『信長公記』では、信長を「信長公」、秀吉を「羽柴筑前」、家康を「家康(公)」と書いていることが多いが、1812年に編纂された『寛政重修諸家譜』では、信長を「右府(註:右大臣のこと)」、秀吉を「豊臣太閤」、家康を「東照宮」と書いていることが多い。ほかに家康は「神君(しんくん)」という書き方をされることも多い。
実際に何と呼ばれていたかは難しいところだが、信長は右大臣を辞任してしまったので「前右府」あるいは普通に「殿」など、秀吉は「太閤殿下」、家康は「内府殿」、将軍位を譲ってからは「大御所様」などといったところだろうか。「東照宮」や「神君」は死んでからの号なので、生きている家康に向って「神君様」などと呼ぶことはない。
まとめ
・いまも昔も、名前を直接呼ぶことはまれ。役職名で呼ぶことが多い
・当時は当たり前でも、いまとなってどのように呼ばれていたかを探るのは難しい
武田家の最終回に女性を取り上げたが、「実際に何と呼ばれていたか」を調べるのは男女を問わず難しい。
現代の話をすれば、あなたがサラリーマンだとして、社長の名前は「山田太郎」さんだとする。
社内では間違っても、部下が「山田さん」「太郎殿」などと呼ぶことはない。普通は「社長」である。社内ならば「山田社長」と名前を付けて呼ばれることもまずない。これは目上の人に対して、実名を呼ぶことは失礼にあたると考えられているからである。一方、社外に出れば、部下が「うちの山田がお世話になっております」と呼び捨てにすることもあるだろう。
その山田太郎さんも、家に帰れば、奥さんには、「あなた」、もしくは「太郎さん」、あるいは「ダーリン」などと呼ばれているかもしれないし、子供には、「お父さん」「パパ」、親と同居していれば、「太郎」「太郎さん」「太郎ちゃん」などと呼ばれているかもしれない。英会話スクールに通っていれば、先生からは「山田さん」と呼ばれるだろう。
このように、社会の中での呼び方と、夫婦や親子といった家族、師弟といった間柄で、どういう呼び方をされるかは異なる。そして、それが記録に残ることはまずない。あまりに当たり前すぎること(当時の人にとって)は記録されないのである。
昔の中国でも同じことで、諸葛孔明のことを名前(諱、いみな)の「亮」と呼ぶことはほとんどなく(目上の人しか使わない)、主君の劉備でも「孔明」と字(あざな、成人してつける名前)を呼んだであろう。一般的には役職名である「丞相」と呼んでいたかもしれない。ただ、こういうことは記録に残っていることもあれば、残っていないこともあるので、もしかしたら、みんなは親しみをこめて、中国語で「チュー」さんと呼んでいたかもしれない(記録には残らない)
日本の戦国時代でも、男性の場合は、通称として(正式に任命されているかはともかく)役職名を名乗ることが多いから、武田信繁であれば「典厩(てんきゅう)殿」、原虎胤であれば「美濃守(みののかみ)殿」などと呼ばれていたと思われる。女性の場合は難しいのだが、一般的には「姫様」「奥方様」「お方様」、あるいは住居の位置、場所の名前から「北の方様」など、名前を呼ぶのは避けていたと思われる。
来年の大河ドラマの主人公であるお江(ごう)の方も名前が多く、いつどのように呼ばれていたか決めるのは難しい。小督(おごう)、江与(えよ)という名もあるし、従一位になったときは「達子」という名をつけている。亡くなってからは崇源院と名をつけられた。ちなみに、姉の淀殿の淀は「淀城」の淀であり、地名である。名は茶々と言われる。
さて、昔の書物を見て、どのように記されているのかと、実際にどのように呼ばれていたかはまた別である。『信長公記』では、信長を「信長公」、秀吉を「羽柴筑前」、家康を「家康(公)」と書いていることが多いが、1812年に編纂された『寛政重修諸家譜』では、信長を「右府(註:右大臣のこと)」、秀吉を「豊臣太閤」、家康を「東照宮」と書いていることが多い。ほかに家康は「神君(しんくん)」という書き方をされることも多い。
実際に何と呼ばれていたかは難しいところだが、信長は右大臣を辞任してしまったので「前右府」あるいは普通に「殿」など、秀吉は「太閤殿下」、家康は「内府殿」、将軍位を譲ってからは「大御所様」などといったところだろうか。「東照宮」や「神君」は死んでからの号なので、生きている家康に向って「神君様」などと呼ぶことはない。
まとめ
・いまも昔も、名前を直接呼ぶことはまれ。役職名で呼ぶことが多い
・当時は当たり前でも、いまとなってどのように呼ばれていたかを探るのは難しい