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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

007 佐竹義重
 【さたけよししげ】 1547-1612

 さあ、鬼義重の登場、なのですが、当時の佐竹氏は約百年の衰退期を克服して、常陸のみならず周辺に勢力を拡大した結果、西からは北条氏、北からは伊達氏の侵攻を受けるという苦しい立場にもありました。もちろん、周辺の大名と連合して、北条氏、伊達氏と渡り合ったという見方もできますが。

 徳寿丸、次郎。常陸介。北条氏との戦いでは一瞬で七人の敵を切り捨てたと言われ、「鬼義重」「坂東太郎」などと勇名を謳われた。

 十代で家督を継ぐ。常陸国内の小田氏を攻めてのちに服属させる。1571年、北条氏が蘆名盛氏、結城晴朝らとともに多賀谷氏(結城家臣だが佐竹氏寄り)を攻めると、援軍を送って撃退している。1575年には白河結城氏の白河城を落とし、陸奥南部にも精力を拡大する。宇都宮氏、結城氏と同盟して北条氏に対抗し、また信長や秀吉に使者を送るなど中央との関係も深めるが、1585年に北条氏に下野長沼城を奪われ、和睦を余儀なくされた。


 以後は伊達政宗との戦いに明け暮れる。同じ1585年には蘆名氏や二階堂氏ら奥州の勢力を糾合して反伊達連合三万の兵を集め政宗との決戦をもくろむ。一方、政宗も七千の兵でこれを迎え撃つ。両軍は人取橋(ひととりばし)で激突するが、兵力にまさる連合軍が終始押し気味に戦いを進める。伊達軍は政宗自ら槍を取って戦い、老将鬼庭左月斎良直が撤退の際の殿を務めて討ち死にするなど苦戦を強いられる。しかし、常陸に里見氏が侵入したとの報せが入り、陣中で武将が殺されるなどの混乱もあり、義重は撤退を決意。政宗は九死に一生を得る。
 1587年には二男義広を強引に蘆名盛隆の婿として蘆名家を継がせ、蘆名盛重と名乗らせる。しかし、1589年に摺上原(すりあげはら)の戦いで、蘆名軍は伊達軍に敗れ、盛重は常陸に落ち延び、ここに蘆名氏は事実上滅びた。

 同年に隠居して子の義宣に家督を譲るが、1590年の小田原攻めでは佐竹氏はいち早く秀吉に従う。常陸太田城を居城とし、五十四万石を領し、豊臣政権下の有力大名となることに成功する。秀吉からは関東に入った家康への抑えとして期待され、厚遇された。
 関ヶ原の戦いでは石田三成との親交があった子の義宣と対立、どちらの陣営にも積極的に属さなかったことから、戦後、所領を出羽秋田(久保田)二十万石に移された。
 三成との親交については、検地の際に実収八十万石余の石高を五十四万石に「まけてもらった」恩義があったという。その分、軍事の負担が減るわけである。子の義宣は西軍につこうとするも、義重や重臣は反対。結局、佐竹氏は中立的立場を取るのだが、家康にしてみれば、江戸の近くに佐竹氏のような勢力がいては目の上のたんこぶである。取り潰しにはしなかったものの、体よく追い払ってしまった。
 幕末は奥羽越列藩同盟に参加するも、新政府側に転じたため、同盟からの集中攻撃を受け、領地の三分の二が戦場となった。維新後は侯爵。なお、秋田県知事の佐竹敬久は佐竹氏の一族である(義舜の弟の系統)

 「鬼義重」として有名なのだが、対北条にしろ、対伊達にしろ、単独では対抗できず、外交力を駆使して連合軍を組織するも、連合軍ゆえの足並みの乱れもあり、勝利を収めることはできなかった。関ヶ原の戦いでも義重や重臣は家康よりだったが、子の義宣は三成方に味方しようとし、結局は中立的な立場に終始したために、秋田への減転封を余儀なくされた。このあたりに地方大名としての義重の能力の限界を見るのだが。



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額の前立が桃に見えますが(桃太郎?)、正しくは佐竹氏の家紋、「五本骨扇に月丸」です。
 
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「負けは負け」ということで。

負けるときはこんなもんだ。

にしても、途中交代で入ってきた選手のふがいなさと言ったら・・・。

やる気ないなら出てくるな、と。

次戦に切り替えましょう。
「戦国人物紹介」

■常陸の名門・佐竹氏

 戦国大名の出自は様々である。鎌倉、室町時代からの守護大名がそのまま戦国大名となる例(今川、島津、大友、伊達、武田、赤松、山名、大内など)、守護が所領の管理のために派遣した守護代が戦国大名となる例(斯波氏の守護代である朝倉、織田、越後上杉氏の守護代である長尾、赤松氏の守護代である浦上、京極氏の守護代である尼子など)、また地方の豪族から戦国大名となる例なども多い。

 佐竹氏は清和源氏である源義光が常陸国久慈郡佐竹郷を与えられ、その子義業(あるいは義業の子昌義)が佐竹氏を称したのが始まりという。先祖をさかのぼれば源義光(新羅三郎)にたどりつくというのは武田氏、小笠原氏、南部氏などと同じである。なお、源義光の長兄が八幡太郎として勇名を謳われた源義家である。
 源平合戦では清和源氏にもかかわらず平氏に味方したため、源頼朝により常陸の所領を没収されているが、のちに奥州藤原氏攻めに加わって旧領を回復している。先祖が平氏でも頼朝に味方した武士も大勢いるから、源氏である佐竹氏が中央の政権である平氏に味方したとしても何ら不思議ではない。常陸国内の対立勢力が頼朝側なら、対抗上平氏に味方することもあろう(もともと、平氏は一族の仲がいいが、源氏は仲が悪いと言われる)

 南北朝時代には足利尊氏に従い常陸守護に任じられ、鎌倉府ができると関東八屋形の一家とされた。しかし義盛の代に男子がなく、関東管領(山内)上杉憲定の子義憲(義人、義仁)を婿養子に迎えるが、一族の山入氏らが反対するなど、家督継承には混乱が見られ、勢力も後退した。
 1490年、佐竹義舜は山入義藤・氏義父子に太田城を追われるが、1504年に岩城常隆(先代)の支援を受けて太田城を奪い返し、二年後には山入氏を滅ぼして常陸国内での勢力回復を図った。
 佐竹義昭は江戸忠通を破り、1557年には宇都宮広綱を助けて宇都宮城に復帰させる。さらに結城氏とも戦い、のちに上杉謙信と結んで小田氏を攻めるなど、積極的に活動する。

義人(義仁)-義俊-義治-義舜-義篤-義昭-義重-義宣(出羽秋田藩)
 

うお、ドイツ負けた。

こういうのがあるからサッカーは面白いね。


自民党はツンデレのようです。

「消費税10%」と言っておきながら、民主党も「消費税10%」と言い出すと、
自民党におんぶかよ、とツン。

なんにせよ、与党と野党第一党が「消費税10%」で一致しているんですから、
遅かれ早かれ、消費税は10%になるのでしょう。
100円のものを買ったら、10円税金を払うことになるわけですよ。ねぇ。
所得税か法人税を引き下げて調整することになるのでしょうが、
取る方ばかり増やされてもね。出る方も絞らないと。

自ら(行政組織)が肥大化して自らを滅ぼすのでしょう。
個人でできる防衛策は、定収を確保し、できるだけリスク(借金など)を減らすことです。

と言いつつ、実家がありながら、アパートを借りて、外食orコンビニ弁当な日々なので、
説得力がないのですがw
お金以上に大事なものもあるよね。
 

アルゼンチン強いなw

得点はないものの、メッシの動きを見られるだけで観戦する価値があります。


前回のワールドカップは前々回(日韓共催)に予選突破したこともあって、
日本国内は盛りあがっていたように思いますが、そんな中、初戦は見てなかったのよね。
スナックで酒飲んでました。
見ないなんて非国民だ、って言われましたがw
前半1-0で折り返して、楽勝かと思ったら、試合結果(1-3)を携帯で見て目を疑った記憶があります。

今回は半分くらいの盛り上がりでしたが、カメルーン戦に勝ったら、
急に風向きが変わって、みんなで「オランダに勝てるか」なんて、勝てませんってw

(日本より強い)韓国だって(前評判の低かった)アルゼンチンに1-4ですぜ。
(優勝候補の)オランダとは力が違いすぎます。0-0ならもうけものです。
(予選無敗、優勝候補筆頭の)スペインがスイスに0-1で負けましたが、
スイスだって、予選1敗しかしてませんからね。決して弱くはないんですよ。


世界最高峰のプレイを見て、目を肥やしましょう。
おいしいものだって、その良さは食べてみないとわかりません。
何事も経験です。
 

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