兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「横綱(とあえて書きますが)白鵬が45連勝で大鵬の記録に並んだ」と書いても、相撲に興味のない人には何のことかわかりません。興味も持たないかもしれません(逆に相撲に興味を持つきっかけになるかもしれませんが)
このブログを始めたのは、書かないと死んじゃうというのもありますが、歴史に興味を持つきっかけになってもらえればというのがあります(もちろん前のブログからの続きですが)
相撲でもサッカーでも、スポーツでなくてもいいのですが、何でも興味を持って知っていけばきっと面白いことがあるはずです(それは人生、というと大げさですが、あなた自身(の精神だったり会話だったり)を豊かにしてくれるはずです)
歴史だって、こんな人がいたのか、こんな変な人がいたのか、こんな出来事があったのか、でも何でも、興味を持って知っていけば、いろいろと面白いことに出会えると思います。我々と同じ人間が過去にやったことですから、現在、将来を生きる我々の役に立つこともあると思います(活かすことができない学問は単なる自己満足に過ぎない)
まあ、そんなに難しく考えなくても、小説的に(あるいは「ブログ的に」)読んで楽しんでいただいても構いません。書き手に自由があるとともに、読み手にも自由があります。
話を最初に戻しますが、知っていくということは少なからず専門的にならざるを得ません。これは避けることができません。知らないことを知っていくということですから、「知らないまま」の人は大勢いるはずです。これは書き手にとってはゆゆしき(重大な)問題です。書き手と読み手が同じ土俵(理解)の上に立っていないかもしれないということです。
いくら白鵬の連勝記録を「すげー」と思っても、知らない人にこの感動や衝撃、偉大さを伝えるのは難しいかもしれません。上には69連勝した人もいるわけですし。野球賭博問題で解雇、謹慎になった力士もおり、ほかに強い力士がいない中で、この連勝は価値が落ちると思う人もいるかもしれません。
「これはこうで・・・」と書いても、読み手が書き手のイメージ通りに読めているかというと、必ずしもそうとは限りません(単に知識の問題だけではない)。ただ、これはある意味当然のことで、読み手も書き手もそのギャップ(溝)を埋めるべく意識的に、あるいは無意識に努力をしています。
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また民主党のパフォーマンスか(タイムラグがあったみたいだけど)
軽井沢の鳩山別荘で過ごし、ヘリで都内を遊覧。殺人者ですぜ。敵か味方かもわからん。
「戦国人物紹介」
軽井沢の鳩山別荘で過ごし、ヘリで都内を遊覧。殺人者ですぜ。敵か味方かもわからん。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将1
『甲陽軍鑑』や甲州流兵学などの影響を受けて、江戸時代に浮世絵や絵画などに多く描かれた。信玄を一将として描いているものや、数の異なるもの、信玄の子である勝頼を中心としたものもある。またそれぞれに異同があり、裏切り者とされる小山田信茂を除いたり(あるいは後ろ姿としたり)、山本勘助を除いたりしたものもある。
信虎、信玄、勝頼に仕えた家臣が描かれているが、その活躍時期には約半世紀のずれがあり、全員が一堂に会したことはない。
・武田信繁 【たけだのぶしげ】 1525-61
次郎、左馬助。左馬助の唐名(中国風の呼び名)である典厩(てんきゅう)で知られる。子信豊も典厩を称したので、古典厩ともいう。
武田信虎の二男で信玄の弟。信虎は才気走ったところのある信玄よりも、信繁を寵愛し家督を継がせようとしたともいう。信虎が追放された後も信玄には重用された。疑り深さでは戦国一、二を争う信玄に仕えて補佐し続けたのだから、よほどの人物だったのだろう。 文武に秀で、信豊に与えた家訓は甲州法度の原型になったとも言われる。武田の副将格として江戸時代に至っても人気があった。朱子学者の室鳩巣は「まことの武将」と評している。真田昌幸は信繁にあやかって二男に同じ名前を付けている(幸村として有名)
川中島の戦いで戦死したが、信玄のみならず謙信や他国の人々からもその死を惜しまれた。子信豊が跡を継いだが、武田家滅亡時に小諸城で謀殺された。

Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
・武田信廉 【たけだのぶかど】 1532?-82
刑部少輔(ぎょうぶ(の)しょう(ゆう))。信虎の四男。信玄、信繁の同母弟。のちに出家して逍遥軒(しょうようけん)信綱と称す。
信繁、その子信豊とともに一門衆。信濃高遠城主を務めた。武田家滅亡の際には一戦もせず、守備していた大島城を放棄して逃亡するが、捕らえられて殺された。
画家としても知られ、信虎像、母大井夫人像などを残している。
信玄に容姿が酷似していたため、信玄の影武者を務めたとされる。
信虎、信玄、勝頼に仕えた家臣が描かれているが、その活躍時期には約半世紀のずれがあり、全員が一堂に会したことはない。
・武田信繁 【たけだのぶしげ】 1525-61
次郎、左馬助。左馬助の唐名(中国風の呼び名)である典厩(てんきゅう)で知られる。子信豊も典厩を称したので、古典厩ともいう。
武田信虎の二男で信玄の弟。信虎は才気走ったところのある信玄よりも、信繁を寵愛し家督を継がせようとしたともいう。信虎が追放された後も信玄には重用された。疑り深さでは戦国一、二を争う信玄に仕えて補佐し続けたのだから、よほどの人物だったのだろう。 文武に秀で、信豊に与えた家訓は甲州法度の原型になったとも言われる。武田の副将格として江戸時代に至っても人気があった。朱子学者の室鳩巣は「まことの武将」と評している。真田昌幸は信繁にあやかって二男に同じ名前を付けている(幸村として有名)
川中島の戦いで戦死したが、信玄のみならず謙信や他国の人々からもその死を惜しまれた。子信豊が跡を継いだが、武田家滅亡時に小諸城で謀殺された。
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・武田信廉 【たけだのぶかど】 1532?-82
刑部少輔(ぎょうぶ(の)しょう(ゆう))。信虎の四男。信玄、信繁の同母弟。のちに出家して逍遥軒(しょうようけん)信綱と称す。
信繁、その子信豊とともに一門衆。信濃高遠城主を務めた。武田家滅亡の際には一戦もせず、守備していた大島城を放棄して逃亡するが、捕らえられて殺された。
画家としても知られ、信虎像、母大井夫人像などを残している。
信玄に容姿が酷似していたため、信玄の影武者を務めたとされる。
さわるな、って言われると、さわりたくなっちゃうんだよねえw
・・・ボスからえらい怒られたけどw
にしても、本州から北海道に戻ってこの暑さ・・・クーラーで部屋の温度自体を下げないと・・・室内にいても熱中症で具合が悪くなりそうです・・・。
そんななか、わが社はエコだかエゴだか知りませんが、省エネに熱心なようで・・・こまめにエアコンの電源を入れたり切ったりしているようです。黙って電源入れとけっての! お宅の課長から課員までみんな風邪引いてるじゃないかwww
そして私も熱っぽい・・・。
「熱血三国」も兵糧の赤字が20万を超えて危機的状態・・・。
斥候 20000
槍兵 42000
弓兵 40000
軽騎馬 3000
床弩 16000
トウシャ 5500
ひたすら米を買っていますが(単価0.08で10万以上はないと買いませんよ)、銭がなくなるのとどっちが先か・・・。1000万近く米があると、天災1回でも50万くらい米が吹き飛ぶのよね・・・。
5鯖もできたことですし(行きませんが・・・4鯖も過疎るのかな)、週末に県城落とせなかったらモチベーションが尽きるのでやめますw
意外と評価しています、武田信虎。上杉謙信における長尾為景や信長における信秀など、英雄と呼ばれる人物の陰には基礎を固めた父親の存在がありました。
「戦国人物紹介」
009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (後編)
「暴君」として名高いのですが、内藤、馬場、山県ら家臣を手討ちにしたというのは家臣統制のために必要なことですし(信長の例を見るまでもない。ちなみにそれぞれの家は信玄の代に復興している)、妊婦の腹を生きたまま裂いたというのは中国の暴君伝説の引用でしょう。新たに政権を掌握した側が、旧政権の人間を悪人とするのはいまも昔も変わりません。ただ、信虎が追放されて甲斐の領民は喜んだという記録がありますから、もうからない戦争を繰り返して家臣や領民のひんしゅくを買っていたことはうかがえます。
信虎追放のクーデターの理由については諸説あります。信虎が晴信(信玄)を差し置いて、二男信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたため晴信派が起こしたという説。しかし、これはクーデター後に信繁が排斥されず、晴信の代に重用されたことからもやや考えづらいところがあります。
また、度重なる戦いで武田家臣、領民らに負担がかかったため、不満を募らせた家臣団が晴信を擁立したという見方もあります。たしかに、このクーデターでは板垣信方や甘利虎泰といった一派が晴信を擁立する形で動いています。晴信が主導するというよりもむしろ、家臣団の主導で起こったクーデターは、その後の晴信の行動にも少なからず制約を与え、彼ら家臣団の意向というものは、晴信と嫡男義信との間に駿河をめぐる外交路線の対立が起こった際にも再び登場してきます。
信玄や謙信といえども、家臣の生殺与奪を握るまでの絶対的な権力を握ることはできませんでした。領地と兵を持った家臣(在地領主、国人)の意向は無視できません。実際、家臣の統制に乗り出した信虎は追放されました。謙信も家臣の統率には苦労し、嫌気がさした謙信は出家すると言って出奔する騒動まで起こしています(計画的行動とも言われるが、本当に嫌気がさしたという説も有力)
信玄は侵略戦争を起こし、それに勝利し続けることで家臣の目を外に向けさせ、家臣の掌握に成功しました。しかし、本質的には融和、懐柔といった域を出ず、絶対的な権力を確立するには至りませんでした。信長とは違って最後まで本拠地を甲府から動かせなかったことは、みずからも在地領主的な存在から抜け出せなかったことにほかなりません。先祖からの領地、あるいはみずからが開発した領地を動くということ自体が困難な発想でした。
信長は常備兵を組織し、また秀吉や明智光秀、滝川一益ら領地を持たない層からも家臣を取り立てたため、家臣の掌握や本拠地の移動が可能となりました。これらは急速な領地拡大にともなう必然だったと言ってもいいかもしれません。

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早すぎた改革者だったのかもしれない。
「戦国人物紹介」
009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (後編)
「暴君」として名高いのですが、内藤、馬場、山県ら家臣を手討ちにしたというのは家臣統制のために必要なことですし(信長の例を見るまでもない。ちなみにそれぞれの家は信玄の代に復興している)、妊婦の腹を生きたまま裂いたというのは中国の暴君伝説の引用でしょう。新たに政権を掌握した側が、旧政権の人間を悪人とするのはいまも昔も変わりません。ただ、信虎が追放されて甲斐の領民は喜んだという記録がありますから、もうからない戦争を繰り返して家臣や領民のひんしゅくを買っていたことはうかがえます。
信虎追放のクーデターの理由については諸説あります。信虎が晴信(信玄)を差し置いて、二男信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたため晴信派が起こしたという説。しかし、これはクーデター後に信繁が排斥されず、晴信の代に重用されたことからもやや考えづらいところがあります。
また、度重なる戦いで武田家臣、領民らに負担がかかったため、不満を募らせた家臣団が晴信を擁立したという見方もあります。たしかに、このクーデターでは板垣信方や甘利虎泰といった一派が晴信を擁立する形で動いています。晴信が主導するというよりもむしろ、家臣団の主導で起こったクーデターは、その後の晴信の行動にも少なからず制約を与え、彼ら家臣団の意向というものは、晴信と嫡男義信との間に駿河をめぐる外交路線の対立が起こった際にも再び登場してきます。
信玄や謙信といえども、家臣の生殺与奪を握るまでの絶対的な権力を握ることはできませんでした。領地と兵を持った家臣(在地領主、国人)の意向は無視できません。実際、家臣の統制に乗り出した信虎は追放されました。謙信も家臣の統率には苦労し、嫌気がさした謙信は出家すると言って出奔する騒動まで起こしています(計画的行動とも言われるが、本当に嫌気がさしたという説も有力)
信玄は侵略戦争を起こし、それに勝利し続けることで家臣の目を外に向けさせ、家臣の掌握に成功しました。しかし、本質的には融和、懐柔といった域を出ず、絶対的な権力を確立するには至りませんでした。信長とは違って最後まで本拠地を甲府から動かせなかったことは、みずからも在地領主的な存在から抜け出せなかったことにほかなりません。先祖からの領地、あるいはみずからが開発した領地を動くということ自体が困難な発想でした。
信長は常備兵を組織し、また秀吉や明智光秀、滝川一益ら領地を持たない層からも家臣を取り立てたため、家臣の掌握や本拠地の移動が可能となりました。これらは急速な領地拡大にともなう必然だったと言ってもいいかもしれません。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
早すぎた改革者だったのかもしれない。
北海道だけ梅雨明けしてないんじゃないの? この蒸し暑さは体にこたえる・・・。
NHKの毎週月曜22:55からの「名将の采配」
うーん・・・。
家康は律義というイメージだったが、最近は狡猾、狸親父というイメージなのか。
気迫なんかで勝てるかい。
なぜ「関ヶ原」で決戦となったかについてまったく触れていないし、両軍とも関ヶ原に間に合わなかった部隊がいた(西軍は立花宗茂、小野木公郷ら、東軍は徳川秀忠など徳川家の本隊)。昨年の大河ドラマでもわかるように、関ヶ原だけで戦いが行われていたのではない。
そもそも、この戦いは「豊臣家家臣」同士の戦いで、豊臣家対徳川家ではない。勝った徳川家康も、これですぐに天下人となったわけではない。関ヶ原の戦いが1600年、征夷大将軍となるのが1603年、豊臣家を滅ぼすのが1615年である。
関ヶ原の戦いを語るなら、少なくとも秀吉の死から始めないとダメである。
来週は川中島の戦いらしいですが、実在すら疑われている戦いを軍記物ベースで憶測するのでしょうか・・・。価値あるの?
NHKの毎週月曜22:55からの「名将の采配」
うーん・・・。
家康は律義というイメージだったが、最近は狡猾、狸親父というイメージなのか。
気迫なんかで勝てるかい。
なぜ「関ヶ原」で決戦となったかについてまったく触れていないし、両軍とも関ヶ原に間に合わなかった部隊がいた(西軍は立花宗茂、小野木公郷ら、東軍は徳川秀忠など徳川家の本隊)。昨年の大河ドラマでもわかるように、関ヶ原だけで戦いが行われていたのではない。
そもそも、この戦いは「豊臣家家臣」同士の戦いで、豊臣家対徳川家ではない。勝った徳川家康も、これですぐに天下人となったわけではない。関ヶ原の戦いが1600年、征夷大将軍となるのが1603年、豊臣家を滅ぼすのが1615年である。
関ヶ原の戦いを語るなら、少なくとも秀吉の死から始めないとダメである。
来週は川中島の戦いらしいですが、実在すら疑われている戦いを軍記物ベースで憶測するのでしょうか・・・。価値あるの?