兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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3場所連続15戦全勝優勝する人が出るとは思わなかった。
いろいろご意見はあるでしょうが、白鵬のこの記録は素直に賞賛したい。
補足。
連勝記録の歴代2位は53連勝の千代の富士ですが(子どもの頃テレビで見ていた)、2場所連続優勝のあと、3場所目の千秋楽で大乃国(北海の白熊、引退後はスイーツの方で有名)に敗れているので、3場所連続全勝優勝というのは、あの千代の富士でも達成していない大記録です。
ちなみに、連勝記録の歴代1位は69連勝の双葉山ですが、この頃は年間2場所で1場所11戦(のち13戦)しかありませんでした。3年近く無敗だったことになります。「双葉山は負けることがない」と思っていた子どももいたそうですw
いろいろご意見はあるでしょうが、白鵬のこの記録は素直に賞賛したい。
補足。
連勝記録の歴代2位は53連勝の千代の富士ですが(子どもの頃テレビで見ていた)、2場所連続優勝のあと、3場所目の千秋楽で大乃国(北海の白熊、引退後はスイーツの方で有名)に敗れているので、3場所連続全勝優勝というのは、あの千代の富士でも達成していない大記録です。
ちなみに、連勝記録の歴代1位は69連勝の双葉山ですが、この頃は年間2場所で1場所11戦(のち13戦)しかありませんでした。3年近く無敗だったことになります。「双葉山は負けることがない」と思っていた子どももいたそうですw
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「戦国人物紹介」
■武田二十四将4
■武田二十四将4
・馬場信房 【ばばのぶふさ】 1515?-75
民部少輔(みんぶ(の)しょう(ゆう))。信虎の代から武田氏に仕える。もと教来石(きょうらいし)景政といい、1546年、信玄の命により馬場氏(馬場虎貞が信虎を諫めて殺されている)を継いで侍大将となり、馬場信房と名乗る。のち鬼美濃、原虎胤にあやかるべく美濃守信春と改める。
1559年には譜代家老衆となり、1562年には牧野島城を築く。山本勘助に築城の指南を受けたとされ、遠江諏訪原城などが信房の設計によるという。
1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊の指揮を取る。1568年の駿河攻めでは、信玄が今川氏の宝物を奪うよう命じるが、信春は「武田家は貪欲とのそしりを免れない」と止めさせ、奪った宝物を火中に投げ込んだという。1569年、北条氏との三増峠の戦いでは先鋒を務める。1572年の三方ヶ原の戦いでも活躍。
信玄の死後は勝頼を補佐するが、長篠の戦いで殿軍となって戦死する。
子の昌房が継いだが、武田家滅亡の際に戦死したという。
・高坂昌信 【こうさかまさのぶ】 1527-78
香坂とも書く。春日源助、源五郎、春日虎綱。弾正忠(だんじょう(の)ちゅう)。
「信長の野望」シリーズだと顔に黒い面頬を当てているのでよくわからないのだが、美少年だったようで、農民の子から信玄の近習に取り立てられる。信玄は昌信を寵愛し、浮気を弁解する手紙まで残している。使番を経て、侍大将となる。1556年には海津城の城代となり越後の上杉氏に備えた。1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊となる。
派手な武功はないが、慎重かつ巧みな用兵で、保科正俊の槍弾正、真田幸隆の攻め弾正と並んで、高坂の逃げ弾正と言われた(敵に背を向けて逃げるのではない)。1572年の三方ヶ原の戦いでも、諸将が家康の追撃を主張する中、「上洛して京に旗を立てるのが先」と諭した。
長篠の戦いのときも海津城にあって上杉氏に備えていたが、敗戦を聞くと勝頼を迎えに行き、軍装を着替えさせて、敗戦の見苦しさを感じさせないよう配慮したという。
『甲陽軍鑑』は昌信が勝頼を諫めるために記した書とされる。かつては偽書同然の扱いであったが、近年は評価を見直す動きもある。
長男昌澄は長篠で戦死、二男信達が跡を継いで海津城代となる。武田家滅亡後は上杉景勝に属すが、真田昌幸への内通を疑われて殺された。

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「逃げ弾正」って逃げる、の意味じゃないんだってば;;
1559年には譜代家老衆となり、1562年には牧野島城を築く。山本勘助に築城の指南を受けたとされ、遠江諏訪原城などが信房の設計によるという。
1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊の指揮を取る。1568年の駿河攻めでは、信玄が今川氏の宝物を奪うよう命じるが、信春は「武田家は貪欲とのそしりを免れない」と止めさせ、奪った宝物を火中に投げ込んだという。1569年、北条氏との三増峠の戦いでは先鋒を務める。1572年の三方ヶ原の戦いでも活躍。
信玄の死後は勝頼を補佐するが、長篠の戦いで殿軍となって戦死する。
子の昌房が継いだが、武田家滅亡の際に戦死したという。
・高坂昌信 【こうさかまさのぶ】 1527-78
香坂とも書く。春日源助、源五郎、春日虎綱。弾正忠(だんじょう(の)ちゅう)。
「信長の野望」シリーズだと顔に黒い面頬を当てているのでよくわからないのだが、美少年だったようで、農民の子から信玄の近習に取り立てられる。信玄は昌信を寵愛し、浮気を弁解する手紙まで残している。使番を経て、侍大将となる。1556年には海津城の城代となり越後の上杉氏に備えた。1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊となる。
派手な武功はないが、慎重かつ巧みな用兵で、保科正俊の槍弾正、真田幸隆の攻め弾正と並んで、高坂の逃げ弾正と言われた(敵に背を向けて逃げるのではない)。1572年の三方ヶ原の戦いでも、諸将が家康の追撃を主張する中、「上洛して京に旗を立てるのが先」と諭した。
長篠の戦いのときも海津城にあって上杉氏に備えていたが、敗戦を聞くと勝頼を迎えに行き、軍装を着替えさせて、敗戦の見苦しさを感じさせないよう配慮したという。
『甲陽軍鑑』は昌信が勝頼を諫めるために記した書とされる。かつては偽書同然の扱いであったが、近年は評価を見直す動きもある。
長男昌澄は長篠で戦死、二男信達が跡を継いで海津城代となる。武田家滅亡後は上杉景勝に属すが、真田昌幸への内通を疑われて殺された。
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「逃げ弾正」って逃げる、の意味じゃないんだってば;;
夏休み・よい子の武田家祭り!
どんどん行きましょう。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将3
四天王、四名臣とも呼ばれる名将たち。信玄の死後も武田家を支え続けますが、高坂以外は長篠の戦いで戦死します。
・山県昌景 【やまがたまさかげ】 1529-75
三郎兵衛尉。初め飯富(おぶ)源四郎。飯富虎昌の弟(甥とも)。小柄で風采は上がらなかったという。信玄の近習、使番として徐々に活躍し、譜代家老衆三百騎持ちの大将となる。
1565年、信玄の嫡男義信と兄虎昌が謀反を企てると、昌景は信玄に報告、このため義信、虎昌は自害させられる。昌景はこの功により虎昌の赤備えを引き継ぐとともに、信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられる。
以後は各地の戦いに参加して、武田家最強と恐れられ、1572年の三方ヶ原の戦いでも家康の本陣を壊滅させている。1569年には駿河江尻城代に任じられるなど、内政・軍政両面で重きをなし、原昌胤とともに家中最高の「職」を務める。信玄が死ぬ際には「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺言されたという。
1575年の長篠の戦いでは敵陣に突撃し、銃弾を浴びるも馬から落ちず、采配を口にくわえたままの壮絶な戦死を遂げる。
長男昌次も戦死、二男昌光も武田家滅亡時に殺される。他の子孫は各地の大名に仕えて江戸時代も生き残っており、明和事件で死罪となった山県大弐も昌景の子孫を称している。

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赤備えにヒゲといえば・・・。
・内藤昌豊 【ないとうまさとよ】 1522-75
修理亮(しゅりのすけ)。もと工藤源左衛門。父が信虎に誅殺されたために、諸国を流浪する。1546年、信玄に呼び戻されて工藤氏の家督を継ぎ、五十騎持ちの侍大将とされた。
1561年の川中島の戦いでは妻女山の別働隊に属す。その後は西上野での戦いに参加し、上野箕輪城代となる。1568年、信虎の代に断絶していた内藤氏の名跡を継ぐことを許され、内藤修理亮昌豊と改める。1569年の北条氏との三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて武田軍の補給面を支える。本人はこの地味な役に不満だったが、信玄は「重要な役で自分がやりたいほどだ」と言って納得させたという。
1572年の三方ヶ原の戦いにも参加、1575年の長篠の戦いで戦死する。
信玄の代表的な戦いにはすべて参加し、常に武功があったが、信玄からは一度も感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)をもらうことがなかった。これについて信玄は「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし(当たり前)」とし、昌豊も「合戦は大将の采配に従って勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことだ」と語ったという。
子昌月(槍弾正・保科正俊の三男とも)が継いだが、武田家滅亡後は織田氏を経て北条氏に仕えた。

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貿易船の船長みたいだ・・・。迅速行軍のスキルはほかの武将につけても役立ちます。
どんどん行きましょう。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将3
四天王、四名臣とも呼ばれる名将たち。信玄の死後も武田家を支え続けますが、高坂以外は長篠の戦いで戦死します。
・山県昌景 【やまがたまさかげ】 1529-75
三郎兵衛尉。初め飯富(おぶ)源四郎。飯富虎昌の弟(甥とも)。小柄で風采は上がらなかったという。信玄の近習、使番として徐々に活躍し、譜代家老衆三百騎持ちの大将となる。
1565年、信玄の嫡男義信と兄虎昌が謀反を企てると、昌景は信玄に報告、このため義信、虎昌は自害させられる。昌景はこの功により虎昌の赤備えを引き継ぐとともに、信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられる。
以後は各地の戦いに参加して、武田家最強と恐れられ、1572年の三方ヶ原の戦いでも家康の本陣を壊滅させている。1569年には駿河江尻城代に任じられるなど、内政・軍政両面で重きをなし、原昌胤とともに家中最高の「職」を務める。信玄が死ぬ際には「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺言されたという。
1575年の長篠の戦いでは敵陣に突撃し、銃弾を浴びるも馬から落ちず、采配を口にくわえたままの壮絶な戦死を遂げる。
長男昌次も戦死、二男昌光も武田家滅亡時に殺される。他の子孫は各地の大名に仕えて江戸時代も生き残っており、明和事件で死罪となった山県大弐も昌景の子孫を称している。
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赤備えにヒゲといえば・・・。
・内藤昌豊 【ないとうまさとよ】 1522-75
修理亮(しゅりのすけ)。もと工藤源左衛門。父が信虎に誅殺されたために、諸国を流浪する。1546年、信玄に呼び戻されて工藤氏の家督を継ぎ、五十騎持ちの侍大将とされた。
1561年の川中島の戦いでは妻女山の別働隊に属す。その後は西上野での戦いに参加し、上野箕輪城代となる。1568年、信虎の代に断絶していた内藤氏の名跡を継ぐことを許され、内藤修理亮昌豊と改める。1569年の北条氏との三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて武田軍の補給面を支える。本人はこの地味な役に不満だったが、信玄は「重要な役で自分がやりたいほどだ」と言って納得させたという。
1572年の三方ヶ原の戦いにも参加、1575年の長篠の戦いで戦死する。
信玄の代表的な戦いにはすべて参加し、常に武功があったが、信玄からは一度も感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)をもらうことがなかった。これについて信玄は「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし(当たり前)」とし、昌豊も「合戦は大将の采配に従って勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことだ」と語ったという。
子昌月(槍弾正・保科正俊の三男とも)が継いだが、武田家滅亡後は織田氏を経て北条氏に仕えた。
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貿易船の船長みたいだ・・・。迅速行軍のスキルはほかの武将につけても役立ちます。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将2
■武田二十四将2
武田義信は二十四将に含みません。後継者となった勝頼(二十四将に含まないこともある)と並べると違和感があるからでしょうか。
・武田義信 【たけだよしのぶ】 1538-67
太郎。武田信玄の嫡男。母は三条氏。一般に1552年に駿河の今川義元の娘を妻に迎えたとされる。甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟が結ばれたときとすれば1554年となる。1553年に元服。義信の「義」は将軍足利義輝から一字を賜ったという。
1554年に十七歳で初陣。信玄の後継者として順調な出発だったが、1560年に岳父(妻の父)今川義元が桶狭間で敗死すると、運命が狂いだす。
1561年の川中島で信玄と意見が対立し、以後不和になったという。1565年に謀反の嫌疑で傅役(もりやく)の飯富虎昌とともに捕らえられて、二年後に死去。自害したとも病死したともいわれる。この対立は単なる父子の対立に留まらず、武田家中で今川(駿河)攻めを進めようとする派と親今川派の二つに分かれての抗争を招いた。
親今川派を粛清することで家中の意見統一を図った信玄だが、嫡男という後継者を失った代償は高くついた。
・一条信龍 【いちじょうのぶたつ】 1539?-82
信竜。右衛門大夫。信虎の八男で信玄の異母弟。生年を1539年とすると、甥の義信よりも後に生まれたことになる。武田家初代信義の二男、一条忠頼に始まる一条家を継ぐ。一門として本陣を守備したことが多かったのか、あまり武功は伝わらないが、1575年の長篠の戦いに参加、重臣多数が戦死する中、生還している。
武田滅亡時は甲斐上野城を守備するが戦死。一説に、織田信忠(信長の嫡子)の軍が甲斐に攻め入ると残党狩りがあり、捕らえられて殺されたともいう。
・武田義信 【たけだよしのぶ】 1538-67
太郎。武田信玄の嫡男。母は三条氏。一般に1552年に駿河の今川義元の娘を妻に迎えたとされる。甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟が結ばれたときとすれば1554年となる。1553年に元服。義信の「義」は将軍足利義輝から一字を賜ったという。
1554年に十七歳で初陣。信玄の後継者として順調な出発だったが、1560年に岳父(妻の父)今川義元が桶狭間で敗死すると、運命が狂いだす。
1561年の川中島で信玄と意見が対立し、以後不和になったという。1565年に謀反の嫌疑で傅役(もりやく)の飯富虎昌とともに捕らえられて、二年後に死去。自害したとも病死したともいわれる。この対立は単なる父子の対立に留まらず、武田家中で今川(駿河)攻めを進めようとする派と親今川派の二つに分かれての抗争を招いた。
親今川派を粛清することで家中の意見統一を図った信玄だが、嫡男という後継者を失った代償は高くついた。
・一条信龍 【いちじょうのぶたつ】 1539?-82
信竜。右衛門大夫。信虎の八男で信玄の異母弟。生年を1539年とすると、甥の義信よりも後に生まれたことになる。武田家初代信義の二男、一条忠頼に始まる一条家を継ぐ。一門として本陣を守備したことが多かったのか、あまり武功は伝わらないが、1575年の長篠の戦いに参加、重臣多数が戦死する中、生還している。
武田滅亡時は甲斐上野城を守備するが戦死。一説に、織田信忠(信長の嫡子)の軍が甲斐に攻め入ると残党狩りがあり、捕らえられて殺されたともいう。
「熱血三国」、二回目の県城攻略も失敗・・・しましたが、モチベーションは尽きず。
最初に大兵力で略奪をして、それが続いているうちに馬500で略奪を続ける(推奨は4回ですが、そこまでは要らない)のですが、ここまではうまくいきました。
最初の略奪部隊が帰ってくるまで時間稼ぎをして、再度大兵力で占領をするのですが、なんとかかんとか、これも成功。弓とトウシャを多めにしておくといいですね。
しかし、第一陣で罠を消しきれず、次の占領第二陣が負けるという大失態。一度引き分けるか負けるかすると、兵力も罠も回復してしまうので、最初からやりなおしなんですね。勝ち続けないとならない。むー。
手ごわいのですが、何か光明のようなものは見えてきたので、兵力を整備して三度(みたび)挑んでみようと思います。
最初に大兵力で略奪をして、それが続いているうちに馬500で略奪を続ける(推奨は4回ですが、そこまでは要らない)のですが、ここまではうまくいきました。
最初の略奪部隊が帰ってくるまで時間稼ぎをして、再度大兵力で占領をするのですが、なんとかかんとか、これも成功。弓とトウシャを多めにしておくといいですね。
しかし、第一陣で罠を消しきれず、次の占領第二陣が負けるという大失態。一度引き分けるか負けるかすると、兵力も罠も回復してしまうので、最初からやりなおしなんですね。勝ち続けないとならない。むー。
手ごわいのですが、何か光明のようなものは見えてきたので、兵力を整備して三度(みたび)挑んでみようと思います。