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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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これらの更新されないままのブログはどうなるんだろう・・・などと思いながら、「君○online」関係のブログのブックマーク(前のブログからリンクしていないもの以外にもたくさんある)を訪ね歩いていましたが、「8月8日で引退します」というのが2件。ちょうどのタイミング。

辞める自由も、辞めない自由もありますし、辞めることを表す自由も、表さない自由もあります。

辞めると決めて、それを表した人、何か心に思うことがあったと思います。あったからこそ表したのだと思います。願わくば、これからの新しい日々の中でいいことがありますように。偶然見かけた人は祈るだけです。

ttp://qinkira.blog47.fc2.com/

ttp://marumaruri.blog46.fc2.com/
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■川中島の戦い(第四回、1561年9月10日)

小説・講談的な脚色も強く、実態については不明な点も多い。濃霧の中の遭遇戦で両軍に多数の死傷者が出たとされるが、上杉軍は三ヶ月後には関東に出陣し、武田軍も西上野に出兵している。

最後まで戦場に残ったのは武田軍だが、信玄の弟典厩信繁、足軽大将山本勘助、初鹿野源五郎忠次、侍大将両角豊後守虎定、三枝守直ら名のある家臣が討ち死にし、上杉軍では重臣級の戦死がなかったことから、戦術的には上杉軍の勝利と言える。ただし、謙信は村上、小笠原など信濃の豪族の要請を受けて信玄との対決を決意したが、戦後、信濃の確保に成功したのは信玄であり、戦略的には武田家の勝利と言えよう。なお、「前半は上杉軍、後半は武田軍の勝ち」などという考え方(秀吉が言ったとされる)は合戦にはない。

さて、通説による戦いの推移である。

信玄は北信濃の抑えとして海津城(長野県長野市、旧松代町)を築き、高坂昌信を入れていた。1561年、謙信は8月14日に越後春日山を出発し、荷駄隊と兵五千を善光寺に置くと、残り一万三千の部隊を率いて妻女山に陣を構えた。妻女山は海津城の南方に当たり、謙信は敵陣に乗り込んだ形になる。信玄も昌信からの知らせを受けて甲府を出発、妻女山の謙信を迂回する形で最終的には29日に海津城に入った。お互い、退路を断つ格好になった。

両軍とも動かず、にらみ合いが続いたが、信玄の方が先にしびれを切らす。山本勘助(馬場信房ともいう)が「きつつき戦法」を提案。軍勢を二つに分け、一方が妻女山に夜討ちをかけ、川中島に出てきた上杉軍をもう一方が討つという作戦である。しかし謙信は山上から海津城を見て、炊事の煙がこれまでより多いことから、武田軍に動きがあることを察したという。妻女山には旗指物を立て、かがり火をたいて、上杉軍がいるように装わせると、一切の物音を立てることを禁じて下山し、夜間、千曲川を渡って川中島の八幡原に陣を敷いた。頼山陽の漢詩の一節、「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)」の場面である。

一方、裏をかかれた信玄。濃霧の中で上杉軍と遭遇し、不意を突かれた格好となった。上杉軍は車懸りの陣と言われるが、別に各部隊がドーナツ状に回転しながら戦っていたわけではない。上杉軍の陣が武田軍の陣に斜めに当たってしまい、次々と後続の新手が武田軍にかかっていったため、このように言われているようである。信玄の弟信繁、山本勘助らが次々と戦死。一時は本陣まで攻め込まれる。このときに有名な両雄の一騎討ちがあったと伝えられている。劣勢であった武田軍だが、妻女山に向かった別働隊が戻ってくると、息を吹き返す。これを見て謙信は撤退を決意、善光寺方面へ逃れる。武田軍も深追いはせず、両軍の戦いは終わった。
 
「戦国IXA」

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『オープンβテスト開催中!』

2010年8月2~8日 終了後はデータを引き継ぎ、翌日からの正式サービスに移行します(予定)
「金(500円分ゲーム内ポイント)」無料進呈(オープンβテスト終了の時点で、残高は回収します)


これを読む限りは、キャンペーンでもらった金500が回収されるようなので、
銀クジや資源効果などで、使い切っておいた方がいいってことかな。
しっかし、キャンペーン配布のマネーを回収しちゃうって、それはどうかとw
(そもそもOBTで重すぎて2鯖目ができるのもどうかと思うが)

城主Lv.はようやく5になりましたが、Lv.6施設を作ってしまって資源が不足。
次のクエストの寺が作れません。合戦での報酬に期待するか・・・。

デッキコストの上限まで武将を組み込んで(残りは入れ替え用に待機)、
6時間秘境(泉オンリー)にぶち込んでいます。その間、何もやることがない;;
銅銭1000枚もってこーい
 

高校野球が始まりましたが、野球にしろ、サッカーにしろ、合戦にしろ、限られた戦力をいかに効率よく運用するか、というところに戦術やセオリー(理論)が発生する余地があります。また、目には見えづらいのですが、流れや勢い、といったものも存在します。

「戦国人物紹介」
 
■武田信玄2

武田家の家督を継いだ信玄は狙いを信濃諏訪に定める。そこには妹禰々御料人(ねねごりょうにん)が嫁いでいた諏訪頼重がおり、同盟関係にあったが、信玄は頼重を攻めるとこれを捕らえてやがては殺してしまう。さらに頼重の娘(諏訪御料人)が美貌と知ると側室にしてしまう。滅亡した敵方の娘を側室にすることに家臣も眉をひそめたという。諏訪御料人との間にもうけたのが諏訪四郎、のちの武田勝頼であり、武田家の実質的な最後の当主である。頼重の怨念が武田家にたたったとも言われる。

諏訪攻め後、信濃攻めを続けた信玄だが、1548年、上田原の戦いで村上義清に大敗し、板垣信方、甘利虎泰らを失う。義清に呼応して小笠原長時が挙兵するが、これを塩尻峠の戦いで破ると、南信濃の小笠原領を制圧して形勢を挽回する。しかし、1550年に義清に再度敗れる。信玄は砥石城(戸石城)を包囲したが、義清は降伏した武将に化けて武田軍の中に紛れ込み、機を見て蜂起、混乱する武田軍は散々に敗れた(戸石崩れ)。信玄が生涯で敗れたのは対村上義清戦の二度だけと言われる。その後、真田幸隆の調略によって村上家を内部から切り崩し、戸石城を陥落させることに成功する。

信濃から小笠原長時、村上義清などを追うが、彼らは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、謙信との対決を招くことになる。世に言う川中島の戦いであるが、通説では1553年から1564年までの十二年間で五度戦ったことになっている。もっとも有名なのが両雄の一騎討ちで知られる1561年の第四回の戦いで、別に八幡原の戦いとも言われる。




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どういうイメージなんだろ・・・。
 
「熱血三国」:事実上の終了

県城を攻略して、することがなくなりましたw

もうこれ以上目指すものはないので、奪った県城をできるだけ強化してから放置します。

長らく採集に出ていた部隊も帰還させました。

たまに収穫を忘れて50時間くらい採集させたりとか、毎日メンテするのが大変だったんだ・・・。

2ヶ月楽しんで、(うっかり)課金20,000円也。元は取ったw

「戦国IXA」:絶賛放置中

合戦は月曜から開始ということで、いまは合戦系のクエストをこなせないのがかなり消化不良。

足軽100作るのに4時間か・・・。★5の空き地を開拓攻撃しに行くとさくっと蒸発します。

銅銭も手に入らないのでカードも引けず。

とりあえず手持ちの武将を秘境に6時間飛ばすだけ。

合戦が始まったらどうなるのか・・・。

こっちはいまのところ課金してまでやりたいようなことはないのですが、

10,000円で銅銭10,000枚とかなら考えますw もっと武将カード引きたい!




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この人も優秀なルイージw

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