忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「一揆」の「揆」という字は、はかる(図る、謀る)という意味です。必ずしも暴動を起こしたわけではありません。集団自体が「一揆」なんですね。

外伝 夏目吉信 【なつめよしのぶ】 1518?-72

次郎左衛門、徳川家臣。

1561年、三河長沢城(長沢松平氏?)攻めなど各地の戦いに従軍するが、1563年の三河一向一揆では一揆側に属す。野羽城にこもるが、ともに城にこもっていた乙部八兵衛の裏切りで松平伊忠(深溝松平氏)に捕らえられる。このとき伊忠の嘆願により許されて家康への帰参を果たす。その後、三河、遠江内の郡代を歴任した。

1572年の三方ヶ原の戦いでは家康の兜と馬を借り、武田軍に突入、家康の身代わりとなって戦死。

一説に明治の文豪夏目漱石は吉信の子孫とか。

追記

物足りないでしょうから、小説的に書くとこうなります。

家康は敗色が濃くなる中、なおも戦場に留まって武田勢と戦っていた。吉信は手勢を率いて家康の元に駆けつけ、武田勢を蹴散らすと、家康に向かって言った、「殿、ここはお退きくだされ」
家康にも大将としての矜持がある。そう簡単に引くわけにはいかない。
埒が明かぬと見た吉信、馬上の家康をつかむや地面に引きずり落とし、兜を奪った。そして、家康を自らの馬に乗せ、馬の轡(くつわ)をつかむと、浜松城の方角を向かせた。それから後ろに回り込むと、槍で馬の尻を突いた。馬は一声嘶くと、家康を乗せたまま浜松城へと走り去った。
家康の馬にまたがった吉信は武田勢に突入し叫んだ、「我こそは家康なり」
PR
「強力な多剤耐性菌が拡散」(時事通信)

http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2010081700004

この手の話は何年に一回かあるのですが、抗生物質が効かないというのは怖いですね。


三方ヶ原の戦いと言えば、夏目吉信なのですが(違)、この人、三河一向一揆(1563-64)では門徒側(一揆側)に属して家康と戦っています。

三河一向一揆の発端については諸説ありますが、根本には家康の領主権と一向宗の既得権の衝突がありました。宗教団体と言っても、経済的、政治的な特権と武力を持っており、戦国大名も無視できない存在でした。主君への忠義で知られる三河武士ですが、一族である松平氏の一部や家臣の一部が一揆側に加わり、家康は宗教の恐ろしさを知ることになります。

一揆側に属した家康家臣でもっとも有名なのは本多正信でしょう。
門徒側が蜂起すると、これに加わり、一揆が終焉すると、三河を去って加賀に赴いたと言われます。のちに家康は高木広正を遣いに出して正信を呼び戻し、正信は再び家康に仕えることになります。家康の帷幄の臣(水魚の交わりとまで言われた)として有名ですが、帰参直後の姉川の戦いでは功を焦ったのか戦場で槍を振るう活躍も見せています(本能寺の変の際の伊賀越えで帰参したというのは訛伝)

もう一人知られるのが蜂谷半之丞貞次。
貞次は一揆側を攻めに来た大久保忠政(忠世、忠佐兄弟のいとこ)を奇襲で破ります。大久保勢は水田に落とされてあわや全滅寸前でしたが、貞次は突如、付近の寺の周りをぐるぐると回りだします。この奇妙な行為に敵味方とも呆然としますが、これはこの隙に大久保勢に逃げろという合図でした。どうも本気で家康には反抗する意思がなかったようです。その証拠に、家康本人と戦場でまみえた際には逃げ出そうとします。しかし、別の兵士が戦いを挑むと、引き返してきてあっという間に討ち取ります。家康がさらに追いすがると一目散に逃げてしまいました。一揆側に属したものの、家康に槍を向けることはためらったようです。一揆が終わると、帰参を許されますが、同じ年の吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争い、敵の銃弾を受けて戦死します。二十六歳。

このほかに門徒側に属した者としては、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺守綱、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明の父加藤教明、徳川四天王の一人である酒井忠次の叔父と言われる酒井忠尚などがいます。一族の中で分かれて争う者も少なくありませんでした。

あれ、三河一向一揆だけで終わってしまいました。この戦いで、家康は三河を支配することに成功します。

ちなみに、「一揆」と言っても、筵旗(むしろばた)に竹槍を持った農民が年貢の減免を求めて立ち上がる、というものではなく(これは江戸時代の百姓一揆のイメージ)、武士や農民(この頃は完全には分離していない)が特定の目的のもとに集団を結成すること(あるいはその集団)で、一向一揆のほかにも、土一揆、徳政一揆、国人一揆、国一揆などいろいろな種類がありました。

一向一揆も信教の自由を求めて立ち上がったわけではありません(そういう側面がないとは言わない)。そういう意味では、ヨーロッパの宗教改革や宗教戦争とは意を異にします。
うちの職場は交代で休みを取るのですが、今週は男手が少ない!

肉体労働に駆り出されて疲れましたw

明日か明後日に地味に筋肉痛になるのでしょうが・・・。


そして、人がいない分、仕事をしなければならない!(当たり前)

で、洋食屋の新規出店のお手伝いをしているのですが、この話がなかなか進みません。

オープン予定日は決まっているのですが、これからようやく内装工事です。

外国で修業されたシェフですから、内装とか備品にもこだわりがあるんですよね。

それはいいとして、問題はお金の件。銀行がにっちもさっちも。

だいぶ前に内諾をもらっているはずですが、追加であの書類をくれ、この書類をくれ、と進みません。

今月中には支払いをしたいのですが、間に合うのか不安です。


独立開業してオーナーシェフになるなんて、夢がありますよね。

その前では多少の困難など大したことではありません。
「戦国IXA(イクサ)」

http://sengokuixa.jp/

ちょ、「ワールド4オープン!」ってwww


1鯖では上杉、織田、武田あたりが人気で、すぐに枠も埋まってしまいましたが、いざ合戦になると、「織田あたりは強そう・・・」ってことで、織田の「攻め」を「受け」る勢力が現れず、織田は守備に回ることに(「攻め」と「受け」がマッチングしないと合戦が成立しない・・・両方「攻め」、両方「受け」は不可)。上杉と武田も他の勢力とマッチングせず、最終的に川中島の戦いにw

勢力はよく考えて選びましょう。同盟(ギルドとか徒党的なもの)も活動的で人数の多いところを早めに押さえておきましょう。

追記(21:18)

合戦アップデート方針について

http://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n4c69295ab0561

対応は速い方だと思います。賛否で否の方が多かった印象の合戦ですが、いろいろと見直すようです。前向きな意見が出て(非難するのは簡単)、それを運営が汲み取って、提示してみて、また考える。試行錯誤の過程に参加していると思えば、また新たな楽しみが見いだせるかもしれません。
「戦国人物紹介」

■武田二十四将7


信虎時代、信虎から一字を賜った将がいます。他国から来た彼らはおもに足軽大将として活躍しますが、信虎が武田家独自の家臣を編成しようとした試みとも考えられます。

・小幡虎盛 【おばたとらもり】 1491-1561

小畠姓。孫十郎、山城守。遠江出身だが、甲斐に赴き武田信虎に仕えて足軽大将となり活躍、信虎から一字を賜り虎盛と名乗る。芦毛の馬が返り血で栗毛に見えたほどの戦ぶりで「鬼虎」と称される。三十六回の戦いに参加し、もらった感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)も三十六枚、四十一ヶ所の傷を被ったという豪の者。晩年は高坂昌信の副将として海津城に在番するが、第四回の川中島の戦いの直前に死去した。遺言は「よくみのほどをしれ」

子の小幡昌盛(1534-1582、孫次郎、又兵衛、豊後守)も海津城番を務めるが、1582年、武田家滅亡の直前に病死。昌盛の子が兵学者として知られる小幡勘兵衛(景憲)。勘兵衛は徳川家に仕え、大坂の陣では大坂城に入って徳川方に豊臣家の情報を伝えた。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟を抱えた。また『甲陽軍鑑』の編者ともいう。

・原虎胤 【はらとらたね】 1497-1564

美濃守。もと下総千葉氏の家臣。のち信虎、信玄に仕える。足軽大将として活躍し、三十八回の戦いに参加し、向こう傷は五十三ヶ所、その武勇から「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれ、信虎から一字を賜って虎胤と名乗る。1521年の飯田河原の戦いで今川氏の家臣福島正成(北条綱成の父とされる)を討ち取ったと言われる。

信玄が家督を継いだときにはすでに老練の域に達しており、信濃攻めに貢献した。1553年、虎胤の信仰する日蓮宗徒と浄土宗徒が争うことがあり、信玄は虎胤に改宗を迫ったが、受け入れずに信玄のもとを去り、北条氏康に仕えた。翌年、善徳寺の会見(甲相駿三国同盟が結ばれた)で帰参する。1559年、信玄が出家すると、虎胤も剃髪し、清岩と称した。川中島の戦いのときには引退していた。



Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

モーニングスター(?)って・・・古代ローマのコロシアムで戦う奴隷みたいw

・原昌胤 【はらまさたね】 1531-75

隼人佐(はやとのすけ)。虎胤とは別の原氏。信玄、勝頼に仕え、陣馬奉行を務める。地理に明るく、信玄にも戦場での布陣の的確さを賞された。譜代家老衆となり百二十騎持ちとされる。山県昌景とともに家中最高の「職」を務め、軍政面で活躍。武田家の竜朱印状の奏者として名が見える。

職業柄、戦闘に直接参加することは少なかったが、1575年の長篠の戦いでは手勢を率いて敵陣に突入して戦死する。

■おまけコラム

方向音痴という人がいますが、逆に地理に強い人というのもいます。私もどちらかというとそのタイプで、カーナビがない時代、地図一枚で車を運転して旅行していました。地図を見るとだいたいの地理が頭の中に入ってしまうんですね。

原昌胤は「山中の道のないところを一人分け入った」ということで、道なき道まで切り開く能力を持っていたようです。

三国志だとこの人、鄧艾(とうがい、字が出るかな?)。三国時代、魏の将ですが、吃音(どもり)というハンデがありながら、屯田や土地開発で功績を上げ、司馬懿に評価されて用いられます。また任地の地図を作ったとあり、地理を見る能力に優れていたようです。

蜀侵攻では要衝の剣閣を避けて間道を通り、主力より先に劉禅を降伏させます。謀反を疑われて殺されてしまうのが惜しいところです。
 
[403]  [404]  [405]  [406]  [407]  [408]  [409]  [410]  [411]  [412]  [413
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]