兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■織田信長・外伝
信長の若いころ、清洲城の近く、あまが池というところに大蛇が出たのを見たという者がいた。信長はこの話を聞くと、早速池に出向き、近隣の村人を集めて池の水を組み出させ始めた。四時間ほど経ったが池の水は七割ほどに減っただけだった。そこで信長は脇差をくわえてみずから池に飛び込んだ(一月の話である)。信長は池の中をしばらく探し回ったが大蛇はいなかった。
このあと、佐々内蔵佐が居城に招いたが、信長はそれを断り、まっすぐ清洲城に帰った。佐々には逆心があったから、寄ったら命を落とすところであった。領民たちは、信長は運が強いことだと言い合ったという(『信長公記』)
■織田信長・外伝
信長の若いころ、清洲城の近く、あまが池というところに大蛇が出たのを見たという者がいた。信長はこの話を聞くと、早速池に出向き、近隣の村人を集めて池の水を組み出させ始めた。四時間ほど経ったが池の水は七割ほどに減っただけだった。そこで信長は脇差をくわえてみずから池に飛び込んだ(一月の話である)。信長は池の中をしばらく探し回ったが大蛇はいなかった。
このあと、佐々内蔵佐が居城に招いたが、信長はそれを断り、まっすぐ清洲城に帰った。佐々には逆心があったから、寄ったら命を落とすところであった。領民たちは、信長は運が強いことだと言い合ったという(『信長公記』)
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「戦国人物紹介」
■武田信玄5 合理主義
信長は無神論者で迷信を信じなかった、と思われていますが、信玄はどうだったのでしょうか。さぞ迷信深かった(出家しているが信心深かったかどうかは疑問)と思われそうですが、意外な逸話がいくつか残っています。
ある戦いでのこと。明日の暦を占ってみると、戦えば必ず負けるという凶日と出た。敵も凶日であることを知って油断しているだろうと考えた信玄、夜明けとともに激しく攻め込んで大勝利を得た。
またあるとき、飛騨の国へ攻めていったが、このときは攻める方向がよくなかった。「破軍返り」といって、その方向へ攻めると必ず負けるという方角である。家臣の間では進撃をためらう空気があったが、それを知った信玄は「敵陣を突き破って、向こう側へ出て、反対に向き直って戦えば、敵の方こそ破軍返りになるではないか」、そう言って家臣を励まし、勇敢に攻めかかったところ、大勝利であった。
信玄自身、易学(うらない)を学んで、八卦を立てることに上手だったが、出た結果にこだわることはなかった。あるときの卦が非常によくなかったのだが、信玄はそれには構わず、軍備を厳重に整えて、敵軍が油断しているところを攻めて、見事に勝利したことがある。馬場美濃守に向かって「占いも当てにならないな。出た卦はひどく悪かったのに、案外にも勝ってしまった」と言うと、「卦が悪かったと申されるのは、敵味方のうち、どちらに悪かったのでしょう」と馬場がきいた。信玄「わしが立てた卦だ、わしのために悪かったに決まっている」馬場「さようでしょう、そのはずでございます。殿のために悪い卦だとお考えになったればこそ、今日の合戦にはいつにもまして、軍備を固めたに違いありません。それゆえにこそ、意外なまでの大勝利となったのでございます」
また別のとき、信玄が出陣しようとしていると、鳩が一羽飛んできて、木の枝に止まった。すると兵士一同がこれを見てうれしそうに話を交わしているので、「どうしたのだ」と信玄が尋ねると、兵士たちは「これまでにも鳩が来て、この木に止まると、必ず戦は大勝利でした」「その鳩が今日も来ました、おめでとうございます」
しかし、信玄はその言葉がまだ終わらないうちに、鉄砲で鳩を撃ち落としていた。
兵士たちがそんな迷信を持っているとすれば、鳩が来ないときには戦いに負けるのではないかと不安に思うだろうが、それでは困ると信玄は考え、鳩と戦いの勝敗には関係がないことを兵士たちに知らせるため、わざとその鳩を撃ち落としたのだった。
謙信は特別ですが、戦に勝とうと思えば迷信に振り回されずに(時に迷信を利用して)合理主義に徹すること、これは信玄にも信長にも共通しています。
■武田信玄5 合理主義
信長は無神論者で迷信を信じなかった、と思われていますが、信玄はどうだったのでしょうか。さぞ迷信深かった(出家しているが信心深かったかどうかは疑問)と思われそうですが、意外な逸話がいくつか残っています。
ある戦いでのこと。明日の暦を占ってみると、戦えば必ず負けるという凶日と出た。敵も凶日であることを知って油断しているだろうと考えた信玄、夜明けとともに激しく攻め込んで大勝利を得た。
またあるとき、飛騨の国へ攻めていったが、このときは攻める方向がよくなかった。「破軍返り」といって、その方向へ攻めると必ず負けるという方角である。家臣の間では進撃をためらう空気があったが、それを知った信玄は「敵陣を突き破って、向こう側へ出て、反対に向き直って戦えば、敵の方こそ破軍返りになるではないか」、そう言って家臣を励まし、勇敢に攻めかかったところ、大勝利であった。
信玄自身、易学(うらない)を学んで、八卦を立てることに上手だったが、出た結果にこだわることはなかった。あるときの卦が非常によくなかったのだが、信玄はそれには構わず、軍備を厳重に整えて、敵軍が油断しているところを攻めて、見事に勝利したことがある。馬場美濃守に向かって「占いも当てにならないな。出た卦はひどく悪かったのに、案外にも勝ってしまった」と言うと、「卦が悪かったと申されるのは、敵味方のうち、どちらに悪かったのでしょう」と馬場がきいた。信玄「わしが立てた卦だ、わしのために悪かったに決まっている」馬場「さようでしょう、そのはずでございます。殿のために悪い卦だとお考えになったればこそ、今日の合戦にはいつにもまして、軍備を固めたに違いありません。それゆえにこそ、意外なまでの大勝利となったのでございます」
また別のとき、信玄が出陣しようとしていると、鳩が一羽飛んできて、木の枝に止まった。すると兵士一同がこれを見てうれしそうに話を交わしているので、「どうしたのだ」と信玄が尋ねると、兵士たちは「これまでにも鳩が来て、この木に止まると、必ず戦は大勝利でした」「その鳩が今日も来ました、おめでとうございます」
しかし、信玄はその言葉がまだ終わらないうちに、鉄砲で鳩を撃ち落としていた。
兵士たちがそんな迷信を持っているとすれば、鳩が来ないときには戦いに負けるのではないかと不安に思うだろうが、それでは困ると信玄は考え、鳩と戦いの勝敗には関係がないことを兵士たちに知らせるため、わざとその鳩を撃ち落としたのだった。
謙信は特別ですが、戦に勝とうと思えば迷信に振り回されずに(時に迷信を利用して)合理主義に徹すること、これは信玄にも信長にも共通しています。
「戦国人物紹介」
■武田信玄4 領国統治
各地の大名は家中統制、領国統治のために分国法(家法)を定めたが、信玄のものは『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。法度は法律・禁止事項、次第は由来・順序を記した文書の意味)』と呼ばれる。「信玄家法」とも呼ばれ、上下二巻に分かれる。今川氏親(義元の父)が定めた『今川仮名目録』の影響を受けているとされる。
上巻は行政や租税、刑法などについて定めたもので、徐々に追加・改定されて1554年に五十七条となって完成した。法度の最後に「信玄自身が法を犯した場合は責任を負う」と記されている。また甲州の領民に広く知らしめたとされる。古代や中世において、法は為政者のもので、必ずしも民衆に公開されることを前提としていたわけではない(民衆はどのような法があるか、存在自体についても知らされていないことが多い)。この点でも特異な分国法である。
この中の「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」は『今川仮名目録』にもあるが、喧嘩をした場合は理非を論ぜず(どちらかが正しい、誤っているということなしに)両方を処罰するという定めである。喧嘩をしかけられても、応じなければ処罰しないとも定めてあり、自力救済、復讐の連鎖を止めさせ、家臣の統制を図るためのものであったと考えられる。
下巻は武田信繁(信玄の弟)が子の信豊および家臣に与えた九十九条の家訓である。
また、信玄は領国経営に熱心な民政家としても知られる。
甲斐は米の収穫が少なかったことから、積極的に領地拡大や新田開発、治水工事をおこない、収入の増加に努めた。中でも「信玄堤」と呼ばれる堤防を築き、河川の氾濫を抑えたことは有名である。
鉱山開発による金銀の発掘を進めていたことでも知られ、日本初の金貨と言われる「甲州金」を鋳造していた。鉱山開発に携わる金山衆は攻城戦の際に地下道を掘るなど戦時にも活躍した。
信玄の時代に定まったとされる甲州枡(こうしゅうます)は、江戸時代に全国で京枡が使われる中でも甲斐国内での使用を許され、大正時代まで使われていたという。
■武田信玄4 領国統治
各地の大名は家中統制、領国統治のために分国法(家法)を定めたが、信玄のものは『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。法度は法律・禁止事項、次第は由来・順序を記した文書の意味)』と呼ばれる。「信玄家法」とも呼ばれ、上下二巻に分かれる。今川氏親(義元の父)が定めた『今川仮名目録』の影響を受けているとされる。
上巻は行政や租税、刑法などについて定めたもので、徐々に追加・改定されて1554年に五十七条となって完成した。法度の最後に「信玄自身が法を犯した場合は責任を負う」と記されている。また甲州の領民に広く知らしめたとされる。古代や中世において、法は為政者のもので、必ずしも民衆に公開されることを前提としていたわけではない(民衆はどのような法があるか、存在自体についても知らされていないことが多い)。この点でも特異な分国法である。
この中の「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」は『今川仮名目録』にもあるが、喧嘩をした場合は理非を論ぜず(どちらかが正しい、誤っているということなしに)両方を処罰するという定めである。喧嘩をしかけられても、応じなければ処罰しないとも定めてあり、自力救済、復讐の連鎖を止めさせ、家臣の統制を図るためのものであったと考えられる。
下巻は武田信繁(信玄の弟)が子の信豊および家臣に与えた九十九条の家訓である。
また、信玄は領国経営に熱心な民政家としても知られる。
甲斐は米の収穫が少なかったことから、積極的に領地拡大や新田開発、治水工事をおこない、収入の増加に努めた。中でも「信玄堤」と呼ばれる堤防を築き、河川の氾濫を抑えたことは有名である。
鉱山開発による金銀の発掘を進めていたことでも知られ、日本初の金貨と言われる「甲州金」を鋳造していた。鉱山開発に携わる金山衆は攻城戦の際に地下道を掘るなど戦時にも活躍した。
信玄の時代に定まったとされる甲州枡(こうしゅうます)は、江戸時代に全国で京枡が使われる中でも甲斐国内での使用を許され、大正時代まで使われていたという。
ドラゴンズ2位浮上! 出来過ぎですw
夏の甲子園、ベスト4がそろいましたね。どのチームにも好投手がいるので締まったゲームが期待できそうです。
世界が注目!松井の去就は「来週決まる」
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/08/19/01.html
松井といってもポンコツの赤ゴジラじゃありませんよw
サッカー、フランスリーグ所属の松井大輔です。
ヨーロッパの大半はこれからリーグ戦開始ですが、去就が注目されます。
日本代表の方は監督が決まらないまま親善試合に臨むようで・・・どうなってるの?
夏の甲子園、ベスト4がそろいましたね。どのチームにも好投手がいるので締まったゲームが期待できそうです。
世界が注目!松井の去就は「来週決まる」
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/08/19/01.html
松井といってもポンコツの赤ゴジラじゃありませんよw
サッカー、フランスリーグ所属の松井大輔です。
ヨーロッパの大半はこれからリーグ戦開始ですが、去就が注目されます。
日本代表の方は監督が決まらないまま親善試合に臨むようで・・・どうなってるの?
「戦国人物紹介」
■武田二十四将8
・多田満頼 【ただみつより】 ?-1563
淡路守。昌澄。摂津源氏の一族多田源氏という。美濃で生まれるが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄にも仕えた。北条氏の河越夜戦のときにも書いたが、夜襲は敵味方の識別、および地形の把握が困難なため高度な技術を必要とする。満頼はその夜襲のスペシャリストとして知られた。
死後は子常昌が継ぐが長篠で戦死。常昌の弟昌俊が継いだ。昌俊の死後、子の昌綱が家康に仕え、のち徳川義直(尾張)の傅役となった。
・横田高松 【よこたたかまつ】 ?-1550
備中守。近江佐々木氏の一族という。近江の出身というが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄の信濃攻めで活躍するが、村上義清との砥石城の戦いで戦死。信玄はその死を嘆き、「武辺の者になろうとするならば、原美濃(虎胤)、横田備中のようになれ」と言ったという。
原虎胤の嫡男泰景が婿養子となって継いだが、長篠の戦いで戦死。子の尹松が跡を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家に仕えて旗本となった。
・三枝守友 【さえぐさもりとも】 1537-75
勘解由(かげゆ)左衛門尉。奥近習を経て侍大将となる。1570年の駿河花沢城攻めで一番槍の武功を挙げ、信玄から感状を受ける。また山県昌景にも気に入られ、その娘をめとり、のちの昌景の猶子(相続権のない養子)となり、山県善右衛門と改めた。
長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備するが、酒井忠次の率いる別働隊の攻撃を受けて戦死する。武田家滅亡後、一族は徳川家に仕える。
・土屋昌次 【つちやまさつぐ】 1545-75
右衛門尉。昌続。奥近習を経て侍大将となる。三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。長篠の戦いでは敵陣に突撃するが銃撃を浴びて戦死。
弟の昌恒が跡を継ぐ。武田家滅亡の際は勝頼に従い、天目山で織田方の滝川一益隊と戦って戦死。その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と称された。
子孫はのちに常陸土浦藩主となった。土屋政直は老中となり、八代将軍吉宗の擁立に貢献があった人物の一人。武田旧臣では真田家に次いで出世した一族と言えよう。
■武田二十四将8
・多田満頼 【ただみつより】 ?-1563
淡路守。昌澄。摂津源氏の一族多田源氏という。美濃で生まれるが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄にも仕えた。北条氏の河越夜戦のときにも書いたが、夜襲は敵味方の識別、および地形の把握が困難なため高度な技術を必要とする。満頼はその夜襲のスペシャリストとして知られた。
死後は子常昌が継ぐが長篠で戦死。常昌の弟昌俊が継いだ。昌俊の死後、子の昌綱が家康に仕え、のち徳川義直(尾張)の傅役となった。
・横田高松 【よこたたかまつ】 ?-1550
備中守。近江佐々木氏の一族という。近江の出身というが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄の信濃攻めで活躍するが、村上義清との砥石城の戦いで戦死。信玄はその死を嘆き、「武辺の者になろうとするならば、原美濃(虎胤)、横田備中のようになれ」と言ったという。
原虎胤の嫡男泰景が婿養子となって継いだが、長篠の戦いで戦死。子の尹松が跡を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家に仕えて旗本となった。
・三枝守友 【さえぐさもりとも】 1537-75
勘解由(かげゆ)左衛門尉。奥近習を経て侍大将となる。1570年の駿河花沢城攻めで一番槍の武功を挙げ、信玄から感状を受ける。また山県昌景にも気に入られ、その娘をめとり、のちの昌景の猶子(相続権のない養子)となり、山県善右衛門と改めた。
長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備するが、酒井忠次の率いる別働隊の攻撃を受けて戦死する。武田家滅亡後、一族は徳川家に仕える。
・土屋昌次 【つちやまさつぐ】 1545-75
右衛門尉。昌続。奥近習を経て侍大将となる。三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。長篠の戦いでは敵陣に突撃するが銃撃を浴びて戦死。
弟の昌恒が跡を継ぐ。武田家滅亡の際は勝頼に従い、天目山で織田方の滝川一益隊と戦って戦死。その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と称された。
子孫はのちに常陸土浦藩主となった。土屋政直は老中となり、八代将軍吉宗の擁立に貢献があった人物の一人。武田旧臣では真田家に次いで出世した一族と言えよう。