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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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中日ドラゴンズファンが阪神について語るのはどうかと、ね。それと同じくらい、南海について語るのはどうかと、ね。そういう感じでとらえていただくとよろしいかと。

で、補足しておくと、このころはまだドラフト制度なんかなかったので、選手はどこと契約してもよかったのですが、南海は杉浦と長嶋を獲得するべく、多額の「栄養費」を渡していました。いまでもたまに問題になることがありますが、当時もこういう裏金というのはありました。ミスターの家はお金持だったので、返して巨人に行けたんだけど(長嶋の巨人入りにはいろいろないきさつがある)、杉浦はそれができず南海に行った。

1958年、長嶋は巨人、杉浦は南海でそれぞれ新人王。

杉浦は翌年にシーズン38勝して4敗(勝率9割を超える)という驚異的な成績で南海を優勝に導き、日本シリーズでも巨人相手に第一戦から第四戦まで四連投、四連勝して南海を初の日本一に導く。優勝時のコメントは「一人になって泣きたい」。ぐっと来るじゃありませんか。

別に二人は仲が悪かったわけではなく、杉浦の引退試合(1971年の巨人とのオープン戦)では、長嶋の打席で登板。長嶋は記者には「思い切って三振する」と答えたが、実際は引退試合のお約束である三振ではなく、センター前ヒット。おいおい、ミスター、というところですが、このへんがミスターのミスターたる所以であって、杉浦も「真剣に向かってきてくれて嬉しかった、誇りを感じる」と言っている。大学時代から一緒に野球をやってきた親友へのはなむけの一打だったんですね。

打ちたいときにヒットを打てるというのは長嶋の神がかり的な能力で、三振は狙ってできるが、狙ってヒットを(それもセンター前に)打つというのは尋常な技ではない。

蛇足になるが、いまでこそスポーツ選手は健康管理が徹底されるようになってきたが、昔の野球選手と言えば、試合が終われば(あるいは試合前から)酒を飲みに行っていた。

ある日の長嶋、相手チームの二塁手を飲みに誘おうと考えた。第一打席で二塁打を打った。飲みに行く約束を取り付けると、後の打席はすべて凡退したという。狙ったときに狙ったところにヒットを打てるというのは、やはり尋常ではない。

三連休はおでかけするので、明日の更新はおやすみです。
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大沢啓二(親分)が亡くなったとなると、これでまた一人、長嶋茂雄(ミスター)を呼び捨てにできる人が減ったなあ、と思って、彼らの因縁を思い出すわけですが。

大沢という人は立教大学の出身で、長嶋の二年先輩に当たる(だから呼び捨てにできるわけだ)。このとき長嶋の同期だったのが杉浦忠(※1)と本屋敷錦吾で、長嶋を含めた彼ら三人はのちに「立教の三羽烏」と呼ばれることになる。

大沢は1956年に南海ホークス(※2)に入団、長嶋、杉浦を南海に入団させることを期待された。しかし、二年後南海に入団したのは杉浦だけで、長嶋は南海入りが決まっていたものの、最終的には巨人に入団した。

このあたりの経緯は長嶋の経歴に詳しいので、ここで詳しく触れないが、その後の大沢の長嶋に対する扱いというものには微妙な雰囲気が感じられて、このときの因縁を思ったものである。

※1 杉浦忠 日本プロ野球史上最高のサブマリン(下手投げ投手。杉浦の場合はサイドスローと言われることもある)。1959年の巨人相手の日本シリーズ、血豆を押しての四連投四連勝は不滅の大記録。2001年、66歳で死去。

※2 南海ホークス いまの福岡ソフトバンクホークスの前身(1947-88年)。リーグ制覇はするものの、日本シリーズでは巨人に敗れるということが続いたが、杉浦の四連投四連勝(4-0)で初の日本一。緑のユニフォームが子供心に印象的でした。私はこのチームについて語る知識も資格も持ちませんが、かつて関西に人気も強さも誇ったチームがありました。
フォローされると、だいたいはフォローするので、

お互いのホームにお互いのつぶやきが流れてくるのですが、

返信し合わない人の方が圧倒的に多いので、

お互いがお互いのつぶやきを読んでいるだけという。

お互い不思議だなあと思っているのでしょうか。


上司の人が代わるので(というわけでもないけれど)、

約二年ぶりに冬眠から目覚めようかなと。

普通にまで戻れるかはわかりませんが、

待遇は普通に戻してもらいたいと思うようになってきました。

権利を主張するには義務を果たさないとね。

どっちもほどほどがいいのですがw


毎日9時、10時まで働いて、休みも出勤したってねえ。

自由な時間がなければ生きている意味がありません。

まあ、ノルマはあるので何とも言えませんが。
10月になっても忙しさが解消しない・・・(あんまり「忙しい」とは言わないんだけど)

役所とか銀行とかで書類が行ったり来たりする(通らない)とイライラしますよね。

ここを直せだとか、この書類が足りないだとか。

そんな枝葉のことで、本体に影響ありますかっての。

箸の上げ下げまで指図されたくないっての。

ということで、社会人になると戦いの連続なんですよね。

ああ、はやく隠居したいw


きっと、三連休の旅行のせい。極力環境は変わらない方が望ましい。
武田家のときに川中島の戦いについて触れましたが、あれは通説と言っても、『甲陽軍鑑』や軍記物に沿ったほぼ「架空」の話で、おそらく真実とは遠い姿になっています。

きつつき戦法も、炊事の煙で出陣を見抜いたという話も軍記物的な脚色ですし、そもそも兵力分散の愚を冒してまで(しかも本体よりも多い別働隊で)夜討ちをかけるというのも不審です。

と思って、調べを始めたのですが、資料がないのが現実なんですよね。

信玄と謙信の一騎打ち、などという場面もないので、なんて無味乾燥な、と思われるかもしれませんが、戦争とはそういうものです。

桶狭間の戦いは、従来「迂回奇襲説」が唱えられてきましたが、現在でこの説を支持する人はほとんどいません。『信長公記』を素直に読めば、「正面攻撃説」(小高い山に布陣する義元からも織田軍が攻撃する姿は見えていた)しかありえないのですが、「正面奇襲説」という「奇襲」にこだわる人は、いまなお少なくありません。

信玄と謙信、両雄の戦いは権謀術数をめぐらした決戦であってほしい、兵力に劣る織田軍は奇襲で義元を破ったのだ、戦争にまつわるそういう願望こそが、戦争の真の姿を見えにくくしているのかもしれません。
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