兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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女子会じゃなくても、会社の内輪の飲み会とかで一人ワインを飲みまくる女性というのはイヤですね。
パートさんで代用できるところに社員を置いておかなくてもいいと思うけど。
会社に籍を置き続けるなら、それなりの働きはしてもらわないと、ねえ。
さて。
一方が他方を必要としなくなった関係は清算した方がいい。
他方が関係を維持しようとするのは未練。
すぱっと切ったけど、向こうは未練すら感じていないね、きっと。
それはそれでいいんだけど。
11月25日、カードを3枚失う。
維持コストは高かったねw
パートさんで代用できるところに社員を置いておかなくてもいいと思うけど。
会社に籍を置き続けるなら、それなりの働きはしてもらわないと、ねえ。
さて。
一方が他方を必要としなくなった関係は清算した方がいい。
他方が関係を維持しようとするのは未練。
すぱっと切ったけど、向こうは未練すら感じていないね、きっと。
それはそれでいいんだけど。
11月25日、カードを3枚失う。
維持コストは高かったねw
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「戦国人物紹介」
■長尾氏
のちに長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏の家名を継いだために藤原氏となったが、もとの長尾氏は桓武平氏の流れを組み、坂東八平氏の一つである。鎌倉時代の末期に上杉氏(足利尊氏・直義兄弟の母方の実家)に従い、上杉氏の家宰・守護代として、一族は上野・越後などに分かれた。嫡流の長尾景忠の子孫は上野白井・上野総社・鎌倉(足利)の各長尾氏に分かれ、景忠の弟(一族ともいう)景恒の子孫から上田長尾、古志長尾、三条長尾の越後長尾氏が分かれた。
景為-景恒-高景-景房-頼景-重景-能景-為景-晴景=景虎(謙信)
022 長尾為景 【ながおためかげ】 1471?-1536?(生没年には異説あり)
生年には1489年の異説もある。父能景が1459年生まれとされているので、1471年を生年とすると、能景十三歳のときの子ということになる。没年も、長男晴景に家督を譲った1536年以降も生存していたという説があり、1537年、1542年とするものもある。これに限らず、上杉家の史家は怠慢か。
六郎、弾正左衛門尉、信濃守。上杉謙信の父で、越後守護代を務める。
「百戦錬磨の猛将」という表現は当を得ていよう。1506年、父能景が越中に出陣し一向一揆と戦うが般若野の戦いで戦死すると家督を継いだ。1507年、越後守護上杉房能と対立すると、その養子定実を擁立して房能を滅ぼす。しかし、房能の実兄である関東管領山内顕定が越後に出兵してくると、為景は敗れて一時佐渡(あるいは越中)に逃れた。その後再起し、1510年に長森原の戦いで顕定を敗死させ、越後の実権を掌握した。とはいえ、国内外に反対派は多く、越後国内では国人領主との戦いを繰り返し、越中・加賀にも遠征した。特に上杉(上条)定憲とはたびたび争った。武威だけでなく、朝廷や幕府にも使者を送るなど外交面にも配慮し、越後の統一を目指したが、国人の反乱が続くさなかに死去した。一説に越中栴檀野の戦いに敗死したともいうが父との混同か。
誇張かもしれないが百余度も戦ったという数は尋常でない。活動期間を四十年としても年平均で二回以上、それも死ぬまでである。
以前別のところに書いた本多忠勝は家康のほとんどの戦いに参加しているが、桶狭間の戦い直前の大高城兵糧入れが初陣で、最後が関ヶ原の戦いなので、四十年間で五十七戦である。途中、秀吉の天下統一があるから、十年除いたとして三十年でこの数なので、やはり年二回平均なのだが、この人は関ヶ原の前後、十年ずつ戦争しない期間があった。死ぬまで戦場に出ていたわけではない。
信長で六十戦ほど。細かいものを数えるともっと多いだろう。約二十五年でこの数なので、信長は多い方か。天下統一のために、常備軍を創って農繁期も農閑期も戦争していたためだろう。信長が参加していない織田軍全体の戦いはさらに多い。ちなみに三国志の曹操は三十五年で約七十戦。この人も死ぬ前年まで戦っていた。
信長、謙信、信玄とも、父親が国内や家中統一のために生涯戦い続けた武将であった。父の奮闘に子の活躍の礎がある。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
シークレットカード。上杉謙信の父であるが、その養子である景勝の外祖父(母方の祖父)でもある。
■長尾氏
のちに長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏の家名を継いだために藤原氏となったが、もとの長尾氏は桓武平氏の流れを組み、坂東八平氏の一つである。鎌倉時代の末期に上杉氏(足利尊氏・直義兄弟の母方の実家)に従い、上杉氏の家宰・守護代として、一族は上野・越後などに分かれた。嫡流の長尾景忠の子孫は上野白井・上野総社・鎌倉(足利)の各長尾氏に分かれ、景忠の弟(一族ともいう)景恒の子孫から上田長尾、古志長尾、三条長尾の越後長尾氏が分かれた。
景為-景恒-高景-景房-頼景-重景-能景-為景-晴景=景虎(謙信)
022 長尾為景 【ながおためかげ】 1471?-1536?(生没年には異説あり)
生年には1489年の異説もある。父能景が1459年生まれとされているので、1471年を生年とすると、能景十三歳のときの子ということになる。没年も、長男晴景に家督を譲った1536年以降も生存していたという説があり、1537年、1542年とするものもある。これに限らず、上杉家の史家は怠慢か。
六郎、弾正左衛門尉、信濃守。上杉謙信の父で、越後守護代を務める。
「百戦錬磨の猛将」という表現は当を得ていよう。1506年、父能景が越中に出陣し一向一揆と戦うが般若野の戦いで戦死すると家督を継いだ。1507年、越後守護上杉房能と対立すると、その養子定実を擁立して房能を滅ぼす。しかし、房能の実兄である関東管領山内顕定が越後に出兵してくると、為景は敗れて一時佐渡(あるいは越中)に逃れた。その後再起し、1510年に長森原の戦いで顕定を敗死させ、越後の実権を掌握した。とはいえ、国内外に反対派は多く、越後国内では国人領主との戦いを繰り返し、越中・加賀にも遠征した。特に上杉(上条)定憲とはたびたび争った。武威だけでなく、朝廷や幕府にも使者を送るなど外交面にも配慮し、越後の統一を目指したが、国人の反乱が続くさなかに死去した。一説に越中栴檀野の戦いに敗死したともいうが父との混同か。
誇張かもしれないが百余度も戦ったという数は尋常でない。活動期間を四十年としても年平均で二回以上、それも死ぬまでである。
以前別のところに書いた本多忠勝は家康のほとんどの戦いに参加しているが、桶狭間の戦い直前の大高城兵糧入れが初陣で、最後が関ヶ原の戦いなので、四十年間で五十七戦である。途中、秀吉の天下統一があるから、十年除いたとして三十年でこの数なので、やはり年二回平均なのだが、この人は関ヶ原の前後、十年ずつ戦争しない期間があった。死ぬまで戦場に出ていたわけではない。
信長で六十戦ほど。細かいものを数えるともっと多いだろう。約二十五年でこの数なので、信長は多い方か。天下統一のために、常備軍を創って農繁期も農閑期も戦争していたためだろう。信長が参加していない織田軍全体の戦いはさらに多い。ちなみに三国志の曹操は三十五年で約七十戦。この人も死ぬ前年まで戦っていた。
信長、謙信、信玄とも、父親が国内や家中統一のために生涯戦い続けた武将であった。父の奮闘に子の活躍の礎がある。
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シークレットカード。上杉謙信の父であるが、その養子である景勝の外祖父(母方の祖父)でもある。
絵画修復という仕事も想像を超えるのですが、この人の人生も壮絶だなあ。
旦那が何をしていたのかと、純粋に報酬が気になりました。
億単位、十億単位の絵ですから、一枚数百万くらいなのかなあ。
俗な話はこのへんで。
宮城谷昌光「三国志」第六巻 読了。
いい作家のいい文章というのは独特の韻律があって、読んでいて心地よくなります。
そして、創作意欲を掻き立てられます。そういう文章があります。
旦那が何をしていたのかと、純粋に報酬が気になりました。
億単位、十億単位の絵ですから、一枚数百万くらいなのかなあ。
俗な話はこのへんで。
宮城谷昌光「三国志」第六巻 読了。
いい作家のいい文章というのは独特の韻律があって、読んでいて心地よくなります。
そして、創作意欲を掻き立てられます。そういう文章があります。
昨日のツイッターの改編。
女の子がトボトボと歩いて行って、ボトッと手元から落ちるように投げる
ボーリングの仕草というものは見ていて和む。
スコア50くらいw
さて、特命担当係長でもチーム長でも何でもいいんですけど、
水曜から仕事を始めて(それだけをやっているわけではない。新人君の面倒も見なければ)、
金曜には叩き台が完成。予想外に早くできた。
現実とはかい離していて(それだけ現実がひどい)、単にデータをいじっているに過ぎないのですが、
こちらをいじると、あちらがありえない数字になって、あちらを直すと、こちらが・・・って、
木曜にはいったんあきらめかけました。いや、どうすんだろ。
ようするに、「駄目」というのは誰もがわかっていて、
あとは対外的(お役所)にどう説明するかという世界で、
関係者が「納得」するかどうかの世界。
リスクテイカーな(リスクを取る)お仕事というのは、結局、先のことなんか誰もわからないわけで、
突き詰めると確率計算ということになるのですが、
じゃあ、この会社とお取引するのに、納める商品に何万個中何個の割合で不良品があるか、
あるいはこの会社が何万社中何社の割合で潰れるか、なんてことは担当者レベルで
いちいち考えたりはしません(するかもしれないけど)
損失を織り込んで利益をいくらにするか、というのは、
組織的に埋め込まれているかもしれません。
(個人なら、個人でぱっと判断することなのでしょうが)
リスクがあるのはわかっているので、そこで判断するかどうかは、
その時点での納得が得られるかどうかということで。正しいかどうかとはまた別なのです。
(後にならないと正しかったかどうかなんてわからない)
女の子がトボトボと歩いて行って、ボトッと手元から落ちるように投げる
ボーリングの仕草というものは見ていて和む。
スコア50くらいw
さて、特命担当係長でもチーム長でも何でもいいんですけど、
水曜から仕事を始めて(それだけをやっているわけではない。新人君の面倒も見なければ)、
金曜には叩き台が完成。予想外に早くできた。
現実とはかい離していて(それだけ現実がひどい)、単にデータをいじっているに過ぎないのですが、
こちらをいじると、あちらがありえない数字になって、あちらを直すと、こちらが・・・って、
木曜にはいったんあきらめかけました。いや、どうすんだろ。
ようするに、「駄目」というのは誰もがわかっていて、
あとは対外的(お役所)にどう説明するかという世界で、
関係者が「納得」するかどうかの世界。
リスクテイカーな(リスクを取る)お仕事というのは、結局、先のことなんか誰もわからないわけで、
突き詰めると確率計算ということになるのですが、
じゃあ、この会社とお取引するのに、納める商品に何万個中何個の割合で不良品があるか、
あるいはこの会社が何万社中何社の割合で潰れるか、なんてことは担当者レベルで
いちいち考えたりはしません(するかもしれないけど)
損失を織り込んで利益をいくらにするか、というのは、
組織的に埋め込まれているかもしれません。
(個人なら、個人でぱっと判断することなのでしょうが)
リスクがあるのはわかっているので、そこで判断するかどうかは、
その時点での納得が得られるかどうかということで。正しいかどうかとはまた別なのです。
(後にならないと正しかったかどうかなんてわからない)
人一人救ったかな、とまでは思いませんが。
(もしかしたら、いまごろ首をくくって冷たくなっているかもしれないのだ)
井戸に子供が落ちそうになっていたら、惻隠の情を催すのは人として当然のことで(孟子)、
首根っこつかまえて(無理矢理ではないが)、病院に連れていったというのは、
それほど大したことではない。
自分自身の意志ではどうにもならないときに、強力な意志(それは判断力)で導いてくれる人、
というのが時に現れることがあって、今回はたまたま私がその任にあったに過ぎない。
(もしかしたら、いまごろ首をくくって冷たくなっているかもしれないのだ)
井戸に子供が落ちそうになっていたら、惻隠の情を催すのは人として当然のことで(孟子)、
首根っこつかまえて(無理矢理ではないが)、病院に連れていったというのは、
それほど大したことではない。
自分自身の意志ではどうにもならないときに、強力な意志(それは判断力)で導いてくれる人、
というのが時に現れることがあって、今回はたまたま私がその任にあったに過ぎない。