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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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いろいろな条件が重なり風邪でダウン。インフルかもしれません(うつされた)

寒気が収まりません。熱と頭痛は引いたっぽい。

急に寒くなって体調を崩したのと、年末からの疲れ、あとは前に食べた牡蠣に当たったのかも・・・。

学生時代から風邪は引かないと豪語していましたが、

数年前に年三回風邪を引いて、会社も休むことがあり、年には勝てんなとw

年末に仕事が片付いていって、うれしいこともあって、死ぬんじゃないか俺、と思いましたが、

当たらずとも遠からず。しばらくおとなしくしています。
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昇進の打診がキター

・・・と言っても、ボスからの推薦が通ると決まっているわけではないので、

ぬかよろこびになる可能性もあるのですが。まあ、推薦されるだけいいじゃないの。

となると、春くらいに昇進と異動がセットかな、と思ったりもしますが。

最近は好きなようにやらせてもらっていますし、それでご飯が食べられるのですから、

昇進は別にどうでもいいのですが、同期を見ると、せめて同じくらいになりたいとは思います。

個人技で魅せるプレーをするんじゃなくて、むしろ、目立たずにひっそりと堅実にやっていたいんです。

何かするんじゃなくて、何も起こらないようにする、何か起こっても何事もなかったように鎮める、

というのが理想なのですが、それは評価しづらいよねw


小さい会社ではないので(と言って、大きい会社でもない)、

そういう人材でも生きられる部署があるのがよかったですね。

となると、学生時代に勉強して進学したのも無駄じゃなかったのかなと。

勉強していい学校に入ればいい会社に就職できる、

というのはすべてにあてはまるわけではありませんが(可能性は高くなる)、逆はないんだよね。

「戦国人物紹介」2011

■上杉謙信1

024 上杉謙信
 【うえすぎけんしん】 1530-78

従五位下弾正少弼、関東管領、不識院(不識庵)大僧都。

戦国最強と謳われた「越後の龍」。もと長尾氏だが上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉を名乗った。「毘」の軍旗を翻して戦場を疾駆する姿は、軍神の如しと畏れられた。義心が篤く、領土欲を持たないため、版図拡大の兵は起こさなかったというが、これは事実ではない。

少しさかのぼって、謙信の幼時の話から筆を起こしたい。

彼が生まれたのは1530年、虎千代と名付けられた。すでに兄晴景と姉(仙桃院)がおり、長尾家の後継は晴景と決まっていた。虎千代は七歳になると、父の命により林泉寺に出される。母である虎御前(青岩院)が信仰心に篤く、虎千代もその影響を受けていた。師は天室光育(てんしつこういく)で、僧としての学問だけでなく、軍学も教えていた。そのやり方は城の模型を使っての実戦形式で、虎千代も軍学にのめりこんでしまったという。

しばらくして父為景が亡くなるが、越後国内は守護上杉定実の養子問題のため内乱状態にあった。いつ敵方が攻めてくるかわからず、虎千代も甲冑を着けて葬儀に臨んだ。兄晴景は父を継いで越後を統べる力を持たなかったため、1543年、虎千代を呼び戻す。還俗し、長尾景虎と名乗ると、晴景の命により古志郡司として中越地方の反乱鎮圧に向かう。三条城、ついで栃尾城に入った景虎は、翌年、栃尾城に攻め寄せてきた反乱軍に勝利。初陣を飾った。

1545年には守護上杉氏の家臣である黒田秀忠が長尾氏に背くが、景虎はこれを討った。これ以降、武勇に優れる景虎は越後の国人たちの期待を集め、景虎を守護代に推して、晴景の隠居を迫る動きが出てくるようになる。晴景側には上田長尾氏の長尾政景らがつき、両者は一触即発となるが、守護である上杉定実が調停に入る。1548年、晴景は景虎を養子とする形で家督を譲り隠居、景虎は春日山城に入り守護代となる。いまだ十九歳である。

1550年には越後守護の上杉定実が子のないまま死去、守護職は空白となるが、景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許される。名目的には越後の頂点に立ったが、それで国内がまとまるほど甘くはなかった。姉の嫁ぎ先である長尾政景が景虎の家督相続に不満を持ち反乱を起こしたのである。反乱の翌年、景虎は政景のこもる坂戸城を包囲して政景を降伏させ、越後の統一に成功する。



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法体でもないのに白頭巾姿とはこれいかに・・・。

「戦国人物紹介」

越後「国主」長尾景虎を生んだ調停者

023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (後編)

越後守護であった上杉房能を除き、養嗣子であった定実を守護に立てた守護代長尾為景だったが、房能の実兄であり関東管領の上杉顕定が越後に攻め入ると、府中を放棄し、定実とともに越中、さらに佐渡へと逃れる。1510年、二人は蒲原津(新潟市)から上陸すると反管領派とも連携し、長森原の戦いで顕定を敗死させることに成功する。

しかし、為景と定実の蜜月は長くは続かなかった。三年後には守護派と守護代派が争いを始め、為景はみずからが擁立した守護定実との戦いを余儀なくされる。定実を幽閉し、守護派を退けた為景は越後の実権を掌握する。 為景は中央との外交にも力を入れ、幕府への献金を行い、将軍足利義晴からは、白笠袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・塗輿の使用を許されている。これは本来であれば守護に許される特権である。また、嫡男に義晴から一字を賜り、「晴景」と名乗らせている。将軍の偏諱を受けるのも、守護か幕府直臣並みの待遇である。

かろうじて「守護」であった定実だが、1533年には実家である上条上杉氏の定憲が為景に反抗して兵を挙げる。1536年の三分一原の戦いで定憲方に勝利した為景だったが、定憲方には越後国内では上田長尾氏(のちに長尾政景が出る)や国人である揚北衆が味方しており、国外でも蘆名氏、伊達氏と結んでいた。軍事的な局面打開に限界を感じた為景は定実の調停もあり、家督を晴景に譲って隠居することを決断する。

さて、定実には子がなかったことから、越後上杉家の家名を継がせるために養子を迎えることとしたが、白羽の矢が立ったのが、縁戚である伊達稙宗(政宗の曽祖父)の子時宗丸(のちの伊達実元)である。しかし、これには越後国内の揚北衆の反対があった。伊達家中でも稙宗に反対する子の晴宗が稙宗を幽閉しようとしたことから内乱状態になり、奥羽を巻き込んで天文の乱(洞(うつろ)の乱ともいう)に発展した。

定実は中条藤資らとともに、時宗丸の入嗣に反対する長尾晴景や揚北衆と戦うも敗れ、入嗣案は失敗に終わる。しかし越後の内乱状態は続き、守護代晴景から派遣されて栃尾城に入った弟の景虎が黒田秀忠の反乱を鎮めると、国人の一部が景虎の擁立を図って、晴景派と対立するに至った。ここで再び定実は調停に乗り出し、晴景が景虎を養子として隠居することで事態の収拾を図った。1548年、景虎は十九歳で越後守護代となる。

養子を得られなかった定実は二年後に死去し、越後上杉家は断絶、以後、越後に守護は置かれなかった。景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許されるが、これに反対する長尾政景が反乱を起こす。景虎の戦いは続く。
新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


前回の投稿から半日もたっていないのですがw

12月31日の午前4時まで飲み続け、午後4時まで寝続けていたので、

この時間になっても眠くなりません。


年賀状の宛名印刷は終えましたが、一言書く気は起こりません。

何事も義務的に思ってしまうと、やる気が起こりませんよね。

近況報告を書くことが多いのですが、取り立てて書くことがないということなのです。

結婚しましたとか、家を建てましたとか、そういうイベント(?)がない(なかった)。


環境の変化を(極端に)望まない人なので、変化のない一年というのは、

それはそれで、平和で、穏やかで、いい一年だったと思いたいのですが。


あ、年賀状に書く一言は、相手によって変えています。みんな同じではないです。

その人のことを想って、それぞれに考えて書きます。

何も書いていない年賀状をもらっても寂しいじゃないですか。来るだけましですけど。

そう思うと、大事に書きたいんですよね。
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