兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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二日目。
情報の真偽はよく確かめて。
福島原発の件は予断を許さない。
まさに「国難」と言うべき事態。
その日のうちに世界各国から支援の声が寄せられたこと、
ネットで確認できるみんなの声、
勇気づけられます。
情報の真偽はよく確かめて。
福島原発の件は予断を許さない。
まさに「国難」と言うべき事態。
その日のうちに世界各国から支援の声が寄せられたこと、
ネットで確認できるみんなの声、
勇気づけられます。
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私のいる北海道も大きくそして長く揺れましたが、とりあえず私は無事です。
すでに亡くなられた方もいらっしゃるとのことで、
被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます。
すでに亡くなられた方もいらっしゃるとのことで、
被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます。
部屋「運」がないらしく、なかなか安住の地は手に入りませんね。
不動産を持つ気はないといっても、こういうときには家があるといいなとは思います。
さて、同じゲームをプレイしていたムール氏には申し訳ないのですが、
「ブラゲ経営塾」はクリアですw
工場・店舗はレベル20になりましたし、1日の収入も1000万をクリア。
ラグが解消しない中で、毎日生産・販売を設定するのもしんどいですし、
任務をクリアしても、上場条件を満たすには遠すぎます。
っていうか、秘書の顔が変わるって何よw
お隣の国は何を考えているかわかりませんな。
「戦国IXA」は続けますが、これで「くろネコONLINE」に専念する態勢になったかなと。
起動が遅いのと、重いのがネックですけどね。
いまはサブキャラでクロンジーン(召喚獣の素)を集めています。
メインキャラではレベルが上過ぎて捕獲できないので。
「君○online」もチャンネル制にして鯖統合しちゃえばいいのにね(技術的にちょっと無理か)
見るに堪えないので早くサービス終了してほしいものです。
でないと、いつまでたっても冬眠から目覚められないw
不動産を持つ気はないといっても、こういうときには家があるといいなとは思います。
さて、同じゲームをプレイしていたムール氏には申し訳ないのですが、
「ブラゲ経営塾」はクリアですw
工場・店舗はレベル20になりましたし、1日の収入も1000万をクリア。
ラグが解消しない中で、毎日生産・販売を設定するのもしんどいですし、
任務をクリアしても、上場条件を満たすには遠すぎます。
っていうか、秘書の顔が変わるって何よw
お隣の国は何を考えているかわかりませんな。
「戦国IXA」は続けますが、これで「くろネコONLINE」に専念する態勢になったかなと。
起動が遅いのと、重いのがネックですけどね。
いまはサブキャラでクロンジーン(召喚獣の素)を集めています。
メインキャラではレベルが上過ぎて捕獲できないので。
「君○online」もチャンネル制にして鯖統合しちゃえばいいのにね(技術的にちょっと無理か)
見るに堪えないので早くサービス終了してほしいものです。
でないと、いつまでたっても冬眠から目覚められないw
若い人が志を遂げられないままに死んでいくというのはやり切れませんな。
「若い」というのは相対的なものだけれども。
私が「歴史の話をします」じゃなくて、
みんなで「歴史の話をしよう」というのがタイトルなので、
お間違えのなきようw
逸話を紹介するだけなら、本やネットを読めば誰でもできることなので、
それを読んでどう解釈するか、どう思うかってところなんですよね。
じゃないと意味がない。まあ、お気軽にどうぞ。
「若い」というのは相対的なものだけれども。
私が「歴史の話をします」じゃなくて、
みんなで「歴史の話をしよう」というのがタイトルなので、
お間違えのなきようw
逸話を紹介するだけなら、本やネットを読めば誰でもできることなので、
それを読んでどう解釈するか、どう思うかってところなんですよね。
じゃないと意味がない。まあ、お気軽にどうぞ。
「戦国人物紹介」
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79
北条氏康の七男(八男とも)。母は遠山康光の妹。氏政や氏照などの異母弟になる。一説には関東一の美男子だったという。
三国同盟が成立すると、武田家に人質として送られたというが、近年では否定する説が多い。初め北条幻庵の婿養子となって三郎を称すという。1569年、越相同盟が締結され、北条氏政の二男国増丸を謙信の養子に出すことが決められるが、幼少を理由に氏政が難色を示したため、翌年、代わりに三郎が越後に送られる。景勝の姉、あるいは妹(清円院、長尾政景の娘、謙信の姪)を娶り、謙信の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられる。1578年の謙信死後、上杉景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が敗れて、自害した。
まとめるとこれだけの人なのだが、少し紙幅を費やしたいと思うのは、謙信の後継者として、景虎と景勝の地位がいまだに確定しないからである。景虎についての研究が進んでいるが、誰が後継者だったのかについてはいくつかの説があって定説を見ない。
景虎後継者説と景勝後継者説
1575年、謙信は景勝に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から景勝に改めさせた(ちなみに、『信長公記』には1581年の巻に二ヶ所登場するが、いずれも「長尾喜平次」である)。また、この頃作られた軍役帳でも「御中城様」として一門の筆頭たる地位を与えられている。逆に景虎は軍役帳に名が見えない。しかし、このことは軍役を課される、すなわち家臣ということであるとして、景虎は特別扱いで、景勝は家臣扱いだったのではないかという説もある。
謙信の「遺言」に疑問を唱える声もある。謙信は卒中で倒れたとされるが、その枕元で直江景綱の未亡人が「家督は景勝に譲られますか」と尋ねたところ、口のきけない謙信はうなずいて意思を示したという話が残っている。しかし、卒中で倒れた謙信が意識を取り戻すのも不審であるし、この話自体作為的である。
景虎が後継者であったからこそ、景勝は先に軍事的行動を起こして春日山城の本丸、金蔵を占拠したのだという見方もできる。二つの説を並べてみると、最終的には勝利した景勝の方が分が悪い。
後継者二人説
越後国主、長尾家総帥の座を景勝に、関東管領職と山内上杉家の家督を景虎に、とする説である。たしかに越相同盟が破綻した後も景虎は追放されず、一門としての地位を保っている。また景勝も遅れて権力の強化が図られ、両者が並立した地位にあったと見ることはできる。 しかし、謙信自身、越後国主(守護職ではない)、関東管領、山内上杉氏の家督など、様々な地位や職を身にまとって、みずからの権力の強化、正当化を図ってきたのであり、後継者の段階で分散するようなことは考えにくい。
後継者不在説
行き当たりばったりで景虎を後継者にしてみたり、景勝に代えてみたり、結局は確たる後継者を決められないうちに急死したのではないかとの説もある。 人間五十年と唄った信長は1575年、四十二歳で織田家の家督を嫡男信忠に譲っている。謙信に実子はいなかったが、家臣の家名復興には関与しており(意図はともかくこれは信玄も同様)、謙信が後継者問題に手を打っていなかった、あるいは無関心だったということはないだろう。
ただ、後世の人にわかりづらいというのは、川中島の戦いのところでも書いたが、やはり上杉家の史家は怠慢ではないかというところに行き着くのだが。次回は御館の乱。
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79
北条氏康の七男(八男とも)。母は遠山康光の妹。氏政や氏照などの異母弟になる。一説には関東一の美男子だったという。
三国同盟が成立すると、武田家に人質として送られたというが、近年では否定する説が多い。初め北条幻庵の婿養子となって三郎を称すという。1569年、越相同盟が締結され、北条氏政の二男国増丸を謙信の養子に出すことが決められるが、幼少を理由に氏政が難色を示したため、翌年、代わりに三郎が越後に送られる。景勝の姉、あるいは妹(清円院、長尾政景の娘、謙信の姪)を娶り、謙信の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられる。1578年の謙信死後、上杉景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が敗れて、自害した。
まとめるとこれだけの人なのだが、少し紙幅を費やしたいと思うのは、謙信の後継者として、景虎と景勝の地位がいまだに確定しないからである。景虎についての研究が進んでいるが、誰が後継者だったのかについてはいくつかの説があって定説を見ない。
景虎後継者説と景勝後継者説
1575年、謙信は景勝に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から景勝に改めさせた(ちなみに、『信長公記』には1581年の巻に二ヶ所登場するが、いずれも「長尾喜平次」である)。また、この頃作られた軍役帳でも「御中城様」として一門の筆頭たる地位を与えられている。逆に景虎は軍役帳に名が見えない。しかし、このことは軍役を課される、すなわち家臣ということであるとして、景虎は特別扱いで、景勝は家臣扱いだったのではないかという説もある。
謙信の「遺言」に疑問を唱える声もある。謙信は卒中で倒れたとされるが、その枕元で直江景綱の未亡人が「家督は景勝に譲られますか」と尋ねたところ、口のきけない謙信はうなずいて意思を示したという話が残っている。しかし、卒中で倒れた謙信が意識を取り戻すのも不審であるし、この話自体作為的である。
景虎が後継者であったからこそ、景勝は先に軍事的行動を起こして春日山城の本丸、金蔵を占拠したのだという見方もできる。二つの説を並べてみると、最終的には勝利した景勝の方が分が悪い。
後継者二人説
越後国主、長尾家総帥の座を景勝に、関東管領職と山内上杉家の家督を景虎に、とする説である。たしかに越相同盟が破綻した後も景虎は追放されず、一門としての地位を保っている。また景勝も遅れて権力の強化が図られ、両者が並立した地位にあったと見ることはできる。 しかし、謙信自身、越後国主(守護職ではない)、関東管領、山内上杉氏の家督など、様々な地位や職を身にまとって、みずからの権力の強化、正当化を図ってきたのであり、後継者の段階で分散するようなことは考えにくい。
後継者不在説
行き当たりばったりで景虎を後継者にしてみたり、景勝に代えてみたり、結局は確たる後継者を決められないうちに急死したのではないかとの説もある。 人間五十年と唄った信長は1575年、四十二歳で織田家の家督を嫡男信忠に譲っている。謙信に実子はいなかったが、家臣の家名復興には関与しており(意図はともかくこれは信玄も同様)、謙信が後継者問題に手を打っていなかった、あるいは無関心だったということはないだろう。
ただ、後世の人にわかりづらいというのは、川中島の戦いのところでも書いたが、やはり上杉家の史家は怠慢ではないかというところに行き着くのだが。次回は御館の乱。