兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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震災から二週間。
北海道の被害は小さかったのですが、影響は徐々に出てきています。
以前登場した、お取引先のハウスメーカーの社長さんとの会話。
資材屋に材料を頼むんだけど、全部ストップしているとの話。
東北に持っていく予定があるから、販売を止められているそうな。
だけど、頼んでおかないと再開した時に順番になるので、注文だけはしておくと。
このままだと六月に家を建ててほしいというお客さんがいるんだけど、
いつになるかわからないなあ、と。
今日も総理大臣っぽい人が会見していて、
記者から仮設住宅建築のスケジュールを聞かれて、要を得ない回答をしていましたが、
部分(失礼)が全体に与える影響が把握できず、身動きが取れなくなるのが困ります。
トップの人は、こういうときに方向を示すためにいると思うんですけど・・・。
(別にトップの人みずからがやらなくてもいい)
復興特需が来るのか(来るとしても誰がお金を出すのか)、
自粛ムードで景気が悪くなるのか(関西への期待は大きい)、
お金は回さないと、経済は死んでしまうんだよねえ。
トップがダメなときに、システム(組織)として、どう維持していくか、
というのは大事なことなんだけど、この話の続きは北条氏政のときに。
北海道の被害は小さかったのですが、影響は徐々に出てきています。
以前登場した、お取引先のハウスメーカーの社長さんとの会話。
資材屋に材料を頼むんだけど、全部ストップしているとの話。
東北に持っていく予定があるから、販売を止められているそうな。
だけど、頼んでおかないと再開した時に順番になるので、注文だけはしておくと。
このままだと六月に家を建ててほしいというお客さんがいるんだけど、
いつになるかわからないなあ、と。
今日も総理大臣っぽい人が会見していて、
記者から仮設住宅建築のスケジュールを聞かれて、要を得ない回答をしていましたが、
部分(失礼)が全体に与える影響が把握できず、身動きが取れなくなるのが困ります。
トップの人は、こういうときに方向を示すためにいると思うんですけど・・・。
(別にトップの人みずからがやらなくてもいい)
復興特需が来るのか(来るとしても誰がお金を出すのか)、
自粛ムードで景気が悪くなるのか(関西への期待は大きい)、
お金は回さないと、経済は死んでしまうんだよねえ。
トップがダメなときに、システム(組織)として、どう維持していくか、
というのは大事なことなんだけど、この話の続きは北条氏政のときに。
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「戦国人物紹介」 026 上杉景虎の補足
■後継者問題についての一考
中継ぎ・景勝
そうなると、景勝は道満丸が成人するまでのつなぎであり、後見役ということになる。武田勝頼の「陣代」と同じである。勝頼は信玄の四男で諏訪家を継いでいたために、武田家の家督を継ぐことが許されず、子の信勝が信玄の次の家督とされ、勝頼は陣代(後見役)になったという説がある(最近はこれを否定し、勝頼は武田家の家督を継いだという説もある)
また、謙信も同様に中継ぎだったという説もある。前に書いた通り、謙信には兄晴景がいたが、謙信は晴景の病が治るまで、もしくは晴景の子が成人するまでの中継ぎだったというものである。中継ぎが子をもうけると家督争いが生じかねないので、謙信は不犯になったというのは話が飛躍しすぎる感があるが、結局は晴景もその子も間もなく亡くなったため、謙信が家督を継ぐことになった。そうであれば、実子をもうけることに努めてもよかったと思うのだが、一度約した不犯の誓いは生涯守ったということだろうか。出家騒動は有名だが、中継ぎゆえに、権力への執着が少ないという説には従えない。むしろ、逆で、責任感が強いからこそ、家中を治めようとした結果が出家騒動ではないだろうか。帰国して一応は家臣たちをまとめることに成功しているのだから。
実子のいない上杉家当主
謙信に実子がいなかったのは有名だが、景勝も実子ができるのは遅かった。中継ぎゆえか、二十歳を過ぎても正室が与えられず、妻を娶ったのは御館の乱後、二十五歳の時である。しかしこの正室との間には子ができず(不仲説は疑問)、側室との間に嫡男定勝が生まれたのは1604年、関ヶ原の戦いの四年も後のことである。定勝の子綱勝は実子のないまま没し、無嗣廃絶となるところを岳父保科正之の仲介もあって、綱勝の妹が嫁いでいた高家吉良義央(よしなか、よしひさ)の子綱憲を末期養子として迎えることで上杉家は存続した。しかし、領地は三十万石から十五万石に半減となり、ただでさえ苦しかった上杉家の財政はさらに逼迫した。
ちなみに吉良義央とは『忠臣蔵』(歴史的には「赤穂事件」)の吉良上野介のことである。『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りを聞いた綱憲が、「父を助けに行く」と言って家臣に止められる姿が描かれている。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
綾御前(仙桃院、仙洞院) 【せんとういん】 1524?(1528?)-1609
長尾為景の娘で謙信の姉。長尾政景に嫁ぎ、娘の一人は上杉景虎に嫁ぎ、
子はのちの上杉景勝である。長尾上杉家の歴史を語る上では重要な女性。
「戦国無双」の影響か、「綾」の名が確定してしまいそうである。
■後継者問題についての一考
中継ぎ・景勝
そうなると、景勝は道満丸が成人するまでのつなぎであり、後見役ということになる。武田勝頼の「陣代」と同じである。勝頼は信玄の四男で諏訪家を継いでいたために、武田家の家督を継ぐことが許されず、子の信勝が信玄の次の家督とされ、勝頼は陣代(後見役)になったという説がある(最近はこれを否定し、勝頼は武田家の家督を継いだという説もある)
また、謙信も同様に中継ぎだったという説もある。前に書いた通り、謙信には兄晴景がいたが、謙信は晴景の病が治るまで、もしくは晴景の子が成人するまでの中継ぎだったというものである。中継ぎが子をもうけると家督争いが生じかねないので、謙信は不犯になったというのは話が飛躍しすぎる感があるが、結局は晴景もその子も間もなく亡くなったため、謙信が家督を継ぐことになった。そうであれば、実子をもうけることに努めてもよかったと思うのだが、一度約した不犯の誓いは生涯守ったということだろうか。出家騒動は有名だが、中継ぎゆえに、権力への執着が少ないという説には従えない。むしろ、逆で、責任感が強いからこそ、家中を治めようとした結果が出家騒動ではないだろうか。帰国して一応は家臣たちをまとめることに成功しているのだから。
実子のいない上杉家当主
謙信に実子がいなかったのは有名だが、景勝も実子ができるのは遅かった。中継ぎゆえか、二十歳を過ぎても正室が与えられず、妻を娶ったのは御館の乱後、二十五歳の時である。しかしこの正室との間には子ができず(不仲説は疑問)、側室との間に嫡男定勝が生まれたのは1604年、関ヶ原の戦いの四年も後のことである。定勝の子綱勝は実子のないまま没し、無嗣廃絶となるところを岳父保科正之の仲介もあって、綱勝の妹が嫁いでいた高家吉良義央(よしなか、よしひさ)の子綱憲を末期養子として迎えることで上杉家は存続した。しかし、領地は三十万石から十五万石に半減となり、ただでさえ苦しかった上杉家の財政はさらに逼迫した。
ちなみに吉良義央とは『忠臣蔵』(歴史的には「赤穂事件」)の吉良上野介のことである。『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りを聞いた綱憲が、「父を助けに行く」と言って家臣に止められる姿が描かれている。
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綾御前(仙桃院、仙洞院) 【せんとういん】 1524?(1528?)-1609
長尾為景の娘で謙信の姉。長尾政景に嫁ぎ、娘の一人は上杉景虎に嫁ぎ、
子はのちの上杉景勝である。長尾上杉家の歴史を語る上では重要な女性。
「戦国無双」の影響か、「綾」の名が確定してしまいそうである。
一週間ぶりにスーパーに行ったら、「これでもか」と言わんばかりにお米が積んでありました。
生産者、物流関係、スーパーの方々、ありがとうございます。安心しました。
ヤフーからの孫引きで申し訳ないのですが、気になる記事を。
南三陸町の戸籍データ消失、法務局保存分も水没(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110319-00000893-yom-soci
電子化していても、他の法務局や自治体とデータを共有しているわけではないので、
自治体と法務局の両方のデータが消失してしまうと、復元は不可能と思われましたが・・・。
消失戸籍の復元可能=江田法相(時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000049-jij-pol
津波で消失した南三陸町の戸籍データ、副本発見(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000827-yom-pol
やっぱり最後は紙なのかなあとアナログ世代は思ってしまいます。
消失というまさかの事態もあり得ることが今回わかったので、
(以前も書きましたが)
たとえ自分は興味がなくても、子孫の誰かが興味を持つ可能性はあるでしょうから、
戸籍は(できればさかのぼって)取っておきたいものです。
自分のルーツを知って、先祖に思いを巡らせることも大事なことだと思います。
生産者、物流関係、スーパーの方々、ありがとうございます。安心しました。
ヤフーからの孫引きで申し訳ないのですが、気になる記事を。
南三陸町の戸籍データ消失、法務局保存分も水没(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110319-00000893-yom-soci
電子化していても、他の法務局や自治体とデータを共有しているわけではないので、
自治体と法務局の両方のデータが消失してしまうと、復元は不可能と思われましたが・・・。
消失戸籍の復元可能=江田法相(時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000049-jij-pol
津波で消失した南三陸町の戸籍データ、副本発見(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000827-yom-pol
やっぱり最後は紙なのかなあとアナログ世代は思ってしまいます。
消失というまさかの事態もあり得ることが今回わかったので、
(以前も書きましたが)
たとえ自分は興味がなくても、子孫の誰かが興味を持つ可能性はあるでしょうから、
戸籍は(できればさかのぼって)取っておきたいものです。
自分のルーツを知って、先祖に思いを巡らせることも大事なことだと思います。
御館の乱を書く前に上杉景虎の後編。
「戦国人物紹介」
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79 (後編)
1569年に対武田同盟として結ばれた越相同盟により、翌年越後に入った北条三郎は上杉景虎の名を与えられ、謙信の姪(清円院、長尾政景の娘で上杉景勝の姉か妹)を娶り、謙信の後継者としての待遇を受ける。翌年には道満丸が生まれている。しかし、上杉家は(景虎の要請にも応えず)武田家に対する軍事行動を起こすことはなく、同盟を主導した北条氏康も1571年に没し、子の氏政は武田寄りの態度を取ったこと(正室は信玄の娘黄梅院)、上杉家と北条家の根深い相互不信が解消しなかったことなどから、越相同盟は破綻する。北条家と武田家の間には再び甲相同盟が締結された。
この時点で景虎の立場は微妙なものとなったが、北条家から召還されることはなく、謙信も景虎を追放せず、景虎自身も小田原に帰ることなく越後に留まった。上杉家の人間として生きる道を選んだのである。
1572年の閏一月に謙信が関東に出陣すると、これに従って出陣する。おそらく初陣であろう。謙信は厩橋城の利根川対岸にある武田方の上野石倉城を落とし、川をはさんで信玄と対峙した。両軍の間に戦闘は行われず、上杉軍も撤兵するが、謙信の生前、景虎が軍事行動に参加したことが確認できるのはこのときだけである。このあと、謙信の死までの約六年間、景虎の行動はほとんど確認できなくなる。後継者の地位から外されたと思われる。北条家の血を引く景虎が後継者では、謙信は関東で戦えなくなるからである。関東の反北条方としては、景虎が家督を継いで上杉家が(景虎の実家である)親北条の政策を取れば立場がなくなってしまう。
しかし、景虎は一門としての地位を剥奪されることなく上杉家に留まっていた。関東経営を考えれば北条家の出自はむしろ弊害となっていたし、景虎派といえるような家臣が多くいたわけではない。とはいえ、隣の武田家の例、信玄の嫡子義信が外交方針に反対して殺され、家中が動揺した件などを見て、謙信も後継者問題には慎重になっていたのかもしれない。また、景虎の子道満丸は謙信から見れば唯一の孫の世代である。ついに謙信は景虎を後継者とすることができず、追放することもできなかったのである。
ここで長尾家の期待を背負って登場してくるのが長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)である。長尾政景の子(二男、長男は夭折)であり、上杉軍の先鋒を務める上田長尾氏の長として成長しつつあった。二人の軍歴の差はのちに御館の乱の趨勢を決定づけることになる。
1575年正月、謙信は顕景に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から上杉景勝に改めて自らの養子とした。景勝の敬称は「中城」とされたが、これを謙信の「実城(みじょう)」に類似したもの、あるいは次ぐものであるとし、景勝を後継者と決めたとする説が多いが、「実城」は隠居号でいわば現在の「会長」に相当する。「社長」に相当するのは「屋形」である(「屋形号」についてはここでは詳述しないが、誰でも称することができたものではない。足利氏一門や有力な守護大名、守護代でなければ称することが許されない)。「実城」は他家にも例があるが「中城」はなく、「中城」を「実城」に類似したものとすれば、景勝の地位は(次期)会長だったことになる。この場合、将来「社長」になる人物は一人しかいない。景虎の子道満丸である。景勝にとっても甥に当たる。こうして謙信は家中の破綻を招かず、妥協を図ったと考えられる。
「戦国人物紹介」
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79 (後編)
1569年に対武田同盟として結ばれた越相同盟により、翌年越後に入った北条三郎は上杉景虎の名を与えられ、謙信の姪(清円院、長尾政景の娘で上杉景勝の姉か妹)を娶り、謙信の後継者としての待遇を受ける。翌年には道満丸が生まれている。しかし、上杉家は(景虎の要請にも応えず)武田家に対する軍事行動を起こすことはなく、同盟を主導した北条氏康も1571年に没し、子の氏政は武田寄りの態度を取ったこと(正室は信玄の娘黄梅院)、上杉家と北条家の根深い相互不信が解消しなかったことなどから、越相同盟は破綻する。北条家と武田家の間には再び甲相同盟が締結された。
この時点で景虎の立場は微妙なものとなったが、北条家から召還されることはなく、謙信も景虎を追放せず、景虎自身も小田原に帰ることなく越後に留まった。上杉家の人間として生きる道を選んだのである。
1572年の閏一月に謙信が関東に出陣すると、これに従って出陣する。おそらく初陣であろう。謙信は厩橋城の利根川対岸にある武田方の上野石倉城を落とし、川をはさんで信玄と対峙した。両軍の間に戦闘は行われず、上杉軍も撤兵するが、謙信の生前、景虎が軍事行動に参加したことが確認できるのはこのときだけである。このあと、謙信の死までの約六年間、景虎の行動はほとんど確認できなくなる。後継者の地位から外されたと思われる。北条家の血を引く景虎が後継者では、謙信は関東で戦えなくなるからである。関東の反北条方としては、景虎が家督を継いで上杉家が(景虎の実家である)親北条の政策を取れば立場がなくなってしまう。
しかし、景虎は一門としての地位を剥奪されることなく上杉家に留まっていた。関東経営を考えれば北条家の出自はむしろ弊害となっていたし、景虎派といえるような家臣が多くいたわけではない。とはいえ、隣の武田家の例、信玄の嫡子義信が外交方針に反対して殺され、家中が動揺した件などを見て、謙信も後継者問題には慎重になっていたのかもしれない。また、景虎の子道満丸は謙信から見れば唯一の孫の世代である。ついに謙信は景虎を後継者とすることができず、追放することもできなかったのである。
ここで長尾家の期待を背負って登場してくるのが長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)である。長尾政景の子(二男、長男は夭折)であり、上杉軍の先鋒を務める上田長尾氏の長として成長しつつあった。二人の軍歴の差はのちに御館の乱の趨勢を決定づけることになる。
1575年正月、謙信は顕景に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から上杉景勝に改めて自らの養子とした。景勝の敬称は「中城」とされたが、これを謙信の「実城(みじょう)」に類似したもの、あるいは次ぐものであるとし、景勝を後継者と決めたとする説が多いが、「実城」は隠居号でいわば現在の「会長」に相当する。「社長」に相当するのは「屋形」である(「屋形号」についてはここでは詳述しないが、誰でも称することができたものではない。足利氏一門や有力な守護大名、守護代でなければ称することが許されない)。「実城」は他家にも例があるが「中城」はなく、「中城」を「実城」に類似したものとすれば、景勝の地位は(次期)会長だったことになる。この場合、将来「社長」になる人物は一人しかいない。景虎の子道満丸である。景勝にとっても甥に当たる。こうして謙信は家中の破綻を招かず、妥協を図ったと考えられる。
ちょっと気になるニュースがあったので。
給与振り込み、他行委託を検討=頭取、全銀協会長就任辞退へ-みずほ銀(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2011032100109
投資信託や保険を売ってみたり、デリバティブ取引で顧客に多額の損失を与えたり、
最近の銀行はいろいろやっていますが、
銀行業務の基本って、預金や貸出もそうなのですが、もとは為替なんですよね。
いかに遠隔地の資金を決済するかなんです。
現金で給与をもらうなら別ですが、給与振込となると、いろいろ決まりがあります。
給料日の朝一には口座に入金されてないといけないんです。
資金繰りが厳しくて夕方に振り込みます、じゃ、給振にならないんですね。
給料を払えない会社とみなされかねません。
それを、銀行の未処理で振り込みされないなんて、ひどい話です。
銀行が決済機能を果たせず、しかも他行に委託しようなんて(個人情報はどうなるの?)
みずほは銀行たる資格がありません。
給与振り込み、他行委託を検討=頭取、全銀協会長就任辞退へ-みずほ銀(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2011032100109
投資信託や保険を売ってみたり、デリバティブ取引で顧客に多額の損失を与えたり、
最近の銀行はいろいろやっていますが、
銀行業務の基本って、預金や貸出もそうなのですが、もとは為替なんですよね。
いかに遠隔地の資金を決済するかなんです。
現金で給与をもらうなら別ですが、給与振込となると、いろいろ決まりがあります。
給料日の朝一には口座に入金されてないといけないんです。
資金繰りが厳しくて夕方に振り込みます、じゃ、給振にならないんですね。
給料を払えない会社とみなされかねません。
それを、銀行の未処理で振り込みされないなんて、ひどい話です。
銀行が決済機能を果たせず、しかも他行に委託しようなんて(個人情報はどうなるの?)
みずほは銀行たる資格がありません。