兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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4月8日から上位施設が登場して、レベルキャップも解放、
って、「君○online」じゃなくて「戦国IXA」の話。
http://sengokuixa.jp/
蔵のレベルキャップが解放されても、もうたくさん作っちゃってるしなあ。
各資源5000くらいでできるから10から11くらいにはしておこうか。
本丸はかっこいいですね。きっと作れないでしょうけど・・・。
そして、棚田。もういっぱい水田作っちゃってるのに、上位施設出すか!
米は割と溢れやすいので、水田3もそのまま10にしちゃおうかな。
そろそろ攻略サイトを見て、真面目に勉強しようかなあ。
戦争とかではわからないことが多すぎます。
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本丸はかっこいいですね。きっと作れないでしょうけど・・・。
そして、棚田。もういっぱい水田作っちゃってるのに、上位施設出すか!
米は割と溢れやすいので、水田3もそのまま10にしちゃおうかな。
そろそろ攻略サイトを見て、真面目に勉強しようかなあ。
戦争とかではわからないことが多すぎます。
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■御館の乱・おかわり
御館の乱をめぐるいくつかの視点
「玉」の行方
物事の趨勢を左右する大事なものや人のことである。謙信の在世中、その正式な家督相続者にされたと思われる道満丸(上杉景虎と長尾政景の娘の間の子、景勝にとっても甥に当たる)こそが「玉」であった。これを手にした者が、次の上杉家を統べることができるのである。謙信の「遺言」に従って春日山城の本丸に入った景勝は、景虎に道満丸の引き渡しを要求したと思われる。しかし、景虎は道満丸が幼少であることなどを理由に景勝の要請を拒否したのではないだろうか。まだ八歳の子供である。景虎としては分別がつくまで、要するに、父の意向を呈して動けるようになる歳までは手放したくないというのが本音だったろう。結局、交渉は決裂し、景虎は道満丸を連れて春日山城を退去し、御館に入ってしまう。
開戦当初は重視された道満丸だったが、乱が景勝の勝利に終わるころには不要のものとなっていた。景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝は上田衆を中心とした集権化を図っていた。そんな景勝には古い権威も妥協の産物であった「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。しかし、この後継者をめぐる「内乱」は謙信の意向とは遠いものだったろう。景勝は異常と言っていいほど寡黙だったが、これには謙信の意向とは異なり、家督継承が血で染まってしまったことも一因だったのかもしれない。
痛くない領地割譲
乱の転機となった景勝と勝頼の和睦。その交渉条件だが、黄金一万両というのはおそらく破格の条件だっただろう。長篠の戦いに敗れて軍事力の再建に努める武田家であるから、軍資金に余裕があったわけではない。もう一つの条件である北信濃飯山城と東上野(西は武田領)の割譲だが、この二つと領地とも景虎派の勢力があった地域である。もとは上杉家の領地とはいえ、景勝からすれば敵方の勢力地である。勝頼に渡したところで景勝の懐は痛まないのである。勝頼としてもそんなことはわかっていただろう。要は領有の正当化ができればよかったのである。勝頼は景勝と景虎の和睦交渉を仲介すると言ったが、景虎とはほとんど交渉していない。
景勝の展望
景勝は乱のことを「不慮之錯乱」などと言っているが、これは景虎も同じである。双方とも最初から戦うことを想定していたわけではない。しかし、内乱になった以上、景勝はその後の(勝った後の)展望をどのように描いていたのだろうか。まず眼前の勝ちを拾うためには後顧を憂えている余裕はなかったのかもしれない。
越後国内を二分しての争いとなり、乱により上杉家の戦力は大きく落ちた。戦略的劣勢を覆すためにはやむを得なかったとはいえ、武田家との和睦で信濃、上野の所領も割譲してしまった。また謙信時代、織田家との外交方針は同盟から敵対に転じていたが、反織田の武田家と同盟を結んだことから、景勝も反織田の立場を取り続けることになった。武田と上杉の甲越同盟は織田、徳川、そして北条と周囲を敵対勢力に囲まれることとなったのである。同盟以降、武田家は東上野で、上杉家は北陸方面でそれぞれ戦いを進めていくが、越後では御館の乱の恩賞に不満を持った新発田重家の乱が起こり、乱は長期化。武田攻めが始まっても上杉家は援軍を送れず、武田家は滅亡し、同盟も消滅した。以後、越中、信濃、上野から織田家の攻勢を受け、景勝も滅亡を覚悟するに至る。
御館の乱をめぐるいくつかの視点
「玉」の行方
物事の趨勢を左右する大事なものや人のことである。謙信の在世中、その正式な家督相続者にされたと思われる道満丸(上杉景虎と長尾政景の娘の間の子、景勝にとっても甥に当たる)こそが「玉」であった。これを手にした者が、次の上杉家を統べることができるのである。謙信の「遺言」に従って春日山城の本丸に入った景勝は、景虎に道満丸の引き渡しを要求したと思われる。しかし、景虎は道満丸が幼少であることなどを理由に景勝の要請を拒否したのではないだろうか。まだ八歳の子供である。景虎としては分別がつくまで、要するに、父の意向を呈して動けるようになる歳までは手放したくないというのが本音だったろう。結局、交渉は決裂し、景虎は道満丸を連れて春日山城を退去し、御館に入ってしまう。
開戦当初は重視された道満丸だったが、乱が景勝の勝利に終わるころには不要のものとなっていた。景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝は上田衆を中心とした集権化を図っていた。そんな景勝には古い権威も妥協の産物であった「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。しかし、この後継者をめぐる「内乱」は謙信の意向とは遠いものだったろう。景勝は異常と言っていいほど寡黙だったが、これには謙信の意向とは異なり、家督継承が血で染まってしまったことも一因だったのかもしれない。
痛くない領地割譲
乱の転機となった景勝と勝頼の和睦。その交渉条件だが、黄金一万両というのはおそらく破格の条件だっただろう。長篠の戦いに敗れて軍事力の再建に努める武田家であるから、軍資金に余裕があったわけではない。もう一つの条件である北信濃飯山城と東上野(西は武田領)の割譲だが、この二つと領地とも景虎派の勢力があった地域である。もとは上杉家の領地とはいえ、景勝からすれば敵方の勢力地である。勝頼に渡したところで景勝の懐は痛まないのである。勝頼としてもそんなことはわかっていただろう。要は領有の正当化ができればよかったのである。勝頼は景勝と景虎の和睦交渉を仲介すると言ったが、景虎とはほとんど交渉していない。
景勝の展望
景勝は乱のことを「不慮之錯乱」などと言っているが、これは景虎も同じである。双方とも最初から戦うことを想定していたわけではない。しかし、内乱になった以上、景勝はその後の(勝った後の)展望をどのように描いていたのだろうか。まず眼前の勝ちを拾うためには後顧を憂えている余裕はなかったのかもしれない。
越後国内を二分しての争いとなり、乱により上杉家の戦力は大きく落ちた。戦略的劣勢を覆すためにはやむを得なかったとはいえ、武田家との和睦で信濃、上野の所領も割譲してしまった。また謙信時代、織田家との外交方針は同盟から敵対に転じていたが、反織田の武田家と同盟を結んだことから、景勝も反織田の立場を取り続けることになった。武田と上杉の甲越同盟は織田、徳川、そして北条と周囲を敵対勢力に囲まれることとなったのである。同盟以降、武田家は東上野で、上杉家は北陸方面でそれぞれ戦いを進めていくが、越後では御館の乱の恩賞に不満を持った新発田重家の乱が起こり、乱は長期化。武田攻めが始まっても上杉家は援軍を送れず、武田家は滅亡し、同盟も消滅した。以後、越中、信濃、上野から織田家の攻勢を受け、景勝も滅亡を覚悟するに至る。
原賠法はありますが。
一企業では責任を取れないところまで来ていますよね。賠償しきれない。
原賠法があるので、と言うべきか。
免責条項があっても、東電の責任は免れないと思いますけどね。
国民が許さないでしょ。
さて、
東電が潰れたら、うちが電気作ります、ってところは基本的にないわけです。
同じように、東電並みの設備をそろえて、
「東電じゃなくて、うちから電気を買ったら安くしますよ」というところも基本的にはありません。
最近はビルの地下などで自家発電しているところもありますが、
量としては大したことがないので、競争相手にもなりません。
潰せないとなると、一時的に国有化する可能性が浮上してきますが、
そうなると、東電の株を持っていた人も「株主責任」を果たすことになるんでしょうかね。
紙くずになるんでしょうから。
ここまでは予見可能性のある出来事として、次はどこに行くのでしょうか。
一企業では責任を取れないところまで来ていますよね。賠償しきれない。
原賠法があるので、と言うべきか。
免責条項があっても、東電の責任は免れないと思いますけどね。
国民が許さないでしょ。
さて、
東電が潰れたら、うちが電気作ります、ってところは基本的にないわけです。
同じように、東電並みの設備をそろえて、
「東電じゃなくて、うちから電気を買ったら安くしますよ」というところも基本的にはありません。
最近はビルの地下などで自家発電しているところもありますが、
量としては大したことがないので、競争相手にもなりません。
潰せないとなると、一時的に国有化する可能性が浮上してきますが、
そうなると、東電の株を持っていた人も「株主責任」を果たすことになるんでしょうかね。
紙くずになるんでしょうから。
ここまでは予見可能性のある出来事として、次はどこに行くのでしょうか。
震災に乗じた増税論には注意しましょう。
そういえば、「減税だぎゃ」(偏見)とか言っていた人たちはどこに行ったのでしょうか。
北の方までは情報が届かないようです。
自粛しようと言ってみたり、いや、自粛はいけない、と言ってみたり。
あっちに振れたり、こっちに振れたりしていますが、
この流れはどこかに向かうのかでしょうか。
自分で思っているつもりでも、誰かに誘導されているかもしれないので、注意しましょう。
さて、PCは更新をアップデートするたびに、ハードディスクの容量が厳しいことになるので、
某電器店に外付けHDDを買いに行くことに。
昔の話はしませんが、2TBで1万5千円って(何メガバイト?)・・・動画でも作ってみようかしらw
店内はほどよく照明が消えていましたが、別に不便は感じませんでした。
いままでが過剰だったんでしょうねえ。
いつまで続くのでしょうか(いろいろな意味で)、戻れるのでしょうか(いろいろな意味で)
そういえば、「減税だぎゃ」(偏見)とか言っていた人たちはどこに行ったのでしょうか。
北の方までは情報が届かないようです。
自粛しようと言ってみたり、いや、自粛はいけない、と言ってみたり。
あっちに振れたり、こっちに振れたりしていますが、
この流れはどこかに向かうのかでしょうか。
自分で思っているつもりでも、誰かに誘導されているかもしれないので、注意しましょう。
さて、PCは更新をアップデートするたびに、ハードディスクの容量が厳しいことになるので、
某電器店に外付けHDDを買いに行くことに。
昔の話はしませんが、2TBで1万5千円って(何メガバイト?)・・・動画でも作ってみようかしらw
店内はほどよく照明が消えていましたが、別に不便は感じませんでした。
いままでが過剰だったんでしょうねえ。
いつまで続くのでしょうか(いろいろな意味で)、戻れるのでしょうか(いろいろな意味で)
「戦国人物紹介」
■御館の乱 1578-79 (後編)
勝頼との和睦交渉の間も、春日山城の景勝と御館の景虎との間には戦いが繰り返されていたが、いずれも景勝側が勝利していた。また各地の景勝派も善戦しており、武田軍の撤退で景勝には光明が差してきた。残る脅威は北条氏の侵攻であったが、上田長尾家の坂戸城は北条氏の攻勢を食い止めた。そうしているうちに十月となった。冬が近づき、北条軍は撤退を余儀なくされた。こうなると、景虎は春が来るまで待たねばならない。景勝は春が来る前に景虎を討たなければならない。
越後国内では景勝派が優勢に転じていた。景虎は戦局の転回を図って上野の北条(きたじょう)景広(高広の子)を御館に迎えるが、景広は翌年二月の戦いで荻田長繁に討たれた。景虎は頼みとしていた指揮官を失い、孤立状態に陥った。三月十六日に景勝軍が御館に総攻撃をかけると、景虎は敗れて翌日鮫ヶ尾城に落ち延びた。景虎側には景虎も含めて優秀な指揮官がおらず、戦略的な優位を戦術的勝利に落とし込むことができなかった。一方の景勝側は景勝自身が戦場経験豊富な指揮官であったし、上田長尾家という戦力もあったことから、戦術的勝利を確保しながら戦略的な不利を外交交渉で転回し、最終的な勝利へと持ち込むことができた。
御館が攻められると、謙信に関東管領職を譲って隠居していた上杉憲政は景虎の子道満丸をともなって景勝のもとに和睦の交渉に赴いた。古い権威の力を借りて和を請うというのはよくあることである。長尾為景も謙信も越後守護上杉氏の力を借りて和睦に至ったことがある。隠居していた憲政にもまだその程度の価値は残っていたようだが、景勝のところへ赴く途中で道満丸もろとも殺された。景勝の指示、家臣の独断など諸説あるが、真相は不明である。いずれにしろ、景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝には、古い権威も「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。景虎は鮫ヶ尾城に逃れたが、景勝軍の追撃が続き、二十四日に落城、景虎は自害した。妻の清円院(長尾政景の娘)も自害した(清円院は御館で自害したとも)。以後も景虎派の抗戦は続き、神余親綱や本庄秀綱を攻めて、内乱が終息したのは景虎の死の一年余りあと、1580年六月のことであった。
御館の乱により景勝への集権化は進んだが、上杉家の軍事力は衰退を余儀なくされ、織田家などの攻勢に対しては防戦一方となる。また、景勝の実家である上田長尾家への恩賞が厚かったことから、新発田重家ら国人衆の不満を招き、重家の反乱鎮圧には六年余を要すことになった。また武田家との同盟は間接的に武田家滅亡の一因となった。武田家は織田、徳川、北条と三方を敵に囲まれることになり、景勝には武田家を支援する余力はなかった。織田家などの武田攻めに遭うと、武田家はわずか一ヶ月で滅んでしまった。これにより、上杉家も周囲を敵対勢力に囲まれ、滅亡寸前まで追い込まれてしまう。この窮地を救ったのが本能寺の変である。
■御館の乱 1578-79 (後編)
勝頼との和睦交渉の間も、春日山城の景勝と御館の景虎との間には戦いが繰り返されていたが、いずれも景勝側が勝利していた。また各地の景勝派も善戦しており、武田軍の撤退で景勝には光明が差してきた。残る脅威は北条氏の侵攻であったが、上田長尾家の坂戸城は北条氏の攻勢を食い止めた。そうしているうちに十月となった。冬が近づき、北条軍は撤退を余儀なくされた。こうなると、景虎は春が来るまで待たねばならない。景勝は春が来る前に景虎を討たなければならない。
越後国内では景勝派が優勢に転じていた。景虎は戦局の転回を図って上野の北条(きたじょう)景広(高広の子)を御館に迎えるが、景広は翌年二月の戦いで荻田長繁に討たれた。景虎は頼みとしていた指揮官を失い、孤立状態に陥った。三月十六日に景勝軍が御館に総攻撃をかけると、景虎は敗れて翌日鮫ヶ尾城に落ち延びた。景虎側には景虎も含めて優秀な指揮官がおらず、戦略的な優位を戦術的勝利に落とし込むことができなかった。一方の景勝側は景勝自身が戦場経験豊富な指揮官であったし、上田長尾家という戦力もあったことから、戦術的勝利を確保しながら戦略的な不利を外交交渉で転回し、最終的な勝利へと持ち込むことができた。
御館が攻められると、謙信に関東管領職を譲って隠居していた上杉憲政は景虎の子道満丸をともなって景勝のもとに和睦の交渉に赴いた。古い権威の力を借りて和を請うというのはよくあることである。長尾為景も謙信も越後守護上杉氏の力を借りて和睦に至ったことがある。隠居していた憲政にもまだその程度の価値は残っていたようだが、景勝のところへ赴く途中で道満丸もろとも殺された。景勝の指示、家臣の独断など諸説あるが、真相は不明である。いずれにしろ、景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝には、古い権威も「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。景虎は鮫ヶ尾城に逃れたが、景勝軍の追撃が続き、二十四日に落城、景虎は自害した。妻の清円院(長尾政景の娘)も自害した(清円院は御館で自害したとも)。以後も景虎派の抗戦は続き、神余親綱や本庄秀綱を攻めて、内乱が終息したのは景虎の死の一年余りあと、1580年六月のことであった。
御館の乱により景勝への集権化は進んだが、上杉家の軍事力は衰退を余儀なくされ、織田家などの攻勢に対しては防戦一方となる。また、景勝の実家である上田長尾家への恩賞が厚かったことから、新発田重家ら国人衆の不満を招き、重家の反乱鎮圧には六年余を要すことになった。また武田家との同盟は間接的に武田家滅亡の一因となった。武田家は織田、徳川、北条と三方を敵に囲まれることになり、景勝には武田家を支援する余力はなかった。織田家などの武田攻めに遭うと、武田家はわずか一ヶ月で滅んでしまった。これにより、上杉家も周囲を敵対勢力に囲まれ、滅亡寸前まで追い込まれてしまう。この窮地を救ったのが本能寺の変である。