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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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二日間おやすみしていてごめんなさい。

東京一泊から帰ってきました!

めったにないのですが、出張すると心身ともに疲れますね。

さあ、お風呂入ってご飯食べて回復しよう。
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初回の喜市くんもそうですが、

昨日のJINの子役(与吉役)もよかったですね。泣きました。

じっと恨みを抱えている目や口の表情が素晴らしかったです。

裏に負けるな!

ということで、調べてみました。


大八木 凱斗(おおやぎ かいと)

http://www.nac-actors.co.jp/actor/?id=1213430080-700868&p=1&gr=1&ca=1

歴史系に結構たくさん出てらっしゃいますね。

「武士の家計簿」にも出ているそうなので、チェックしたいですね。

いやあ、昨日のはうまかった。
1号機の「メルトダウン」にそれほど驚かないと見るや、

2号機、3号機もメルトダウンの可能性認めるって・・・。

わかっていて隠していたのか、本当にわからなかったのか。

政府も東電も信じられません(初めから信じてないけど)


どれだけ危険なのかわからないのが困る。
なかなか本論に入れないまま続いている「羽柴」についての考察ですが、

「名前」という身近な話題に触れつつ、

戦国時代のみならず、古代から幕末、明治に至るまで範囲を広く取って、

「戦国人物紹介」では拾いきれない人物や家についても取り上げています。


一人の人物を掘り下げる「戦国人物紹介」も書いていて楽しいのですが、

ゆるやかに話をつなげていく今回のスタイルも嫌いではありません。

「歴史の話をしよう」の目指したい方向かもしれません。

(結局、書きたいものを書くんですけどね)
「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・4

前回、上の名前(名字)について少し話しましたが、日本人の場合、名字を変えること自体は珍しいことではないんですよね。

日本の場合は、地名に由来する名前(苗字)が非常に多いんですね。発祥の地を「名字の地」とも言います。一つ注目しておきたいのは、名字の地とのちの勢力地が必ずしも一致しないということです。

伊達氏は藤原氏の子孫を称していますが、頼朝の奥州征伐で軍功があり、陸奥伊達郡を与えられて伊達氏を称しました。毛利氏も大江氏(大江広元の子孫)と伝えられていますが、広元の子が相模愛田郡毛利荘を領したことから毛利氏を称しました。その子が越後に所領を持ち、越後の毛利氏は北条(きたじょう)氏などの祖となります。もう一人の子は安芸の所領を譲られて安芸に移ります。鎌倉時代にまでさかのぼる話です。

以下に代表的な例を見てみましょう。いかに地名に由来する名字が多いかおわかりいただけると思います。

津軽(陸奥津軽郡)、南部(甲斐巨摩郡南部)、伊達(陸奥伊達郡)、
秋田(秋田城介の官名、いずれにせよ出羽秋田郡から)、
最上(出羽最上郡)、蘆名(相模蘆名)、佐竹(常陸久慈郡佐竹)、
宇都宮(宇都宮別当職から、下野宇都宮)、結城(下総結城)、
里見(上野碓氷郡里見郷)、武田(甲斐巨摩郡武田、あるいは常陸那珂郡武田郷)、
小笠原(甲斐巨摩郡小笠原)、村上(信濃更級郡村上)、
上杉(丹波何鹿郡上杉庄)、長尾(相模鎌倉郡長尾庄)、
畠山(武蔵男衾郡畠山郷)、今川(三河幡豆郡今川荘)、
松平(三河加茂郡松平郷)、織田(越前丹生郡織田荘、地名としては「おた」)、
土岐(美濃土岐郡)、浅井(近江浅井郡)、朝倉(但馬養父郡朝倉)、
一色(三河碧海郡吉良庄一色、吉良氏とは同族)、北畠(山城、洛北の地名から)、
六角(京の六角から、佐々木氏の子孫で京極氏と同族)、
三好(小笠原氏の一族、阿波三好郡)、赤松(播磨赤穂郡、あるいは佐用郡赤松村)、
山名(新田氏の一族、上野多胡郡山名郷)、
尼子(佐々木氏の一族、近江犬上郡尼子郷)、
大内(もと多々良氏、周防吉敷郡大内)、毛利(相模愛甲郡毛利庄)、
長宗我部(土佐長岡郡宗我部郷、長岡郡の宗我部氏の意味)、河野(伊予風早郡河野郷)、
大友(相模大友郷、始祖については諸説ある)、立花(筑前糟屋郡立花)、
龍造寺(肥前佐賀郡小津郷龍造寺)、相良(遠江榛原郡相良庄)、
肝付(大隅肝付郡)、伊東(伊豆田方郡伊東庄)、島津(日向諸県郡島津庄)

注:「庄」と「荘」は厳密には区別していない。
  北条は後日取り上げます。斎藤は「斎宮頭の藤原氏」の略で官職名から。

このブログを読んでいる人で、「旗本の三男坊の子孫だ」とか「とある貴族の末裔で」という人はいないと思いますが、武家や公家の出でなくても、明治以前から名字があった家って意外と多いと思うんですよね。いわゆる武士の特権として「苗字(名字)、帯刀」というのがありましたが、農民や町人も公称はしなかっただけで、苗字(名字)を持っていた例は多くあります。私も確認してみましたが、父方は少なくとも元禄年間からいまの名字でしたし、母方も戸籍謄本を調べると江戸時代末期にはいまの名字だったことが確認できました。明治新政府になって、四民平等となり、平民にも苗字の公称が許されたので、それまで苗字がなかった人々が新たに苗字を作ったというのは全体の話ではありません。
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