兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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ごくまれに、保存ボタンを押しても文章が保存されない場合があるので、
ブログのエディタ上で直接文章を書かずに、いまは必ずワードで下書きするようにしています。
何千字も書いた文章が消えちゃったら、泣くに泣けません(やったことはある)
ということで、一度ワードで書いた文章をエディタ上にコピペするのですが、
その段階で最低一度は自分の文章を読み返します。
もちろん、ワードで書いている最中にも推敲します(誤字はワードが拾ってくれる)
そうなると、一度ブログにアップした文章は、自分で読むことはほとんどないんですよね。
しかし、つい先ほどまで、去年の8月から9月の自分のブログを読み返していました。
季節の話をしていないかな、と思ったもので。
去年の8月は信玄の話をしていたんですね。もうそんなにたったか。
そして、8月6日は「暑い」と書いています。今年も同じですね。
さらに9月にはもう秋の風、と。早く9月になれ~。
普段はまず読み返すことのない自分の文章を読んでいると妙な気分です。
ブログのエディタ上で直接文章を書かずに、いまは必ずワードで下書きするようにしています。
何千字も書いた文章が消えちゃったら、泣くに泣けません(やったことはある)
ということで、一度ワードで書いた文章をエディタ上にコピペするのですが、
その段階で最低一度は自分の文章を読み返します。
もちろん、ワードで書いている最中にも推敲します(誤字はワードが拾ってくれる)
そうなると、一度ブログにアップした文章は、自分で読むことはほとんどないんですよね。
しかし、つい先ほどまで、去年の8月から9月の自分のブログを読み返していました。
季節の話をしていないかな、と思ったもので。
去年の8月は信玄の話をしていたんですね。もうそんなにたったか。
そして、8月6日は「暑い」と書いています。今年も同じですね。
さらに9月にはもう秋の風、と。早く9月になれ~。
普段はまず読み返すことのない自分の文章を読んでいると妙な気分です。
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松永久秀は熟成に入りました。
一晩寝かすと美味くなります。
少し早めの夏休みに突入していますが、
なんで私が夏休みに入ると、蒸し暑くなりますかね。
外は28度なのに、部屋の中は34度です。
去年もこんな感じで、すっかり夏バテしてしまったので、今年は注意しています。
夏休み中は特に体調管理に気を付けないとね。
だいたい不規則な生活になって、昼まで寝てしまうと、
朝ご飯を抜いてしまうので、エネルギー不足になります。
食生活には要注意です。
食欲を落とさないために、外食でおいしいものを食べるのもやむなし。
お酒もあるとちょうどいいですね(・・・これっていつもと同じ気がする)
一晩寝かすと美味くなります。
少し早めの夏休みに突入していますが、
なんで私が夏休みに入ると、蒸し暑くなりますかね。
外は28度なのに、部屋の中は34度です。
去年もこんな感じで、すっかり夏バテしてしまったので、今年は注意しています。
夏休み中は特に体調管理に気を付けないとね。
だいたい不規則な生活になって、昼まで寝てしまうと、
朝ご飯を抜いてしまうので、エネルギー不足になります。
食生活には要注意です。
食欲を落とさないために、外食でおいしいものを食べるのもやむなし。
お酒もあるとちょうどいいですね(・・・これっていつもと同じ気がする)
「戦国人物紹介」
三好氏特集(後編)
三好義継 【みよしよしつぐ】 1549-73
熊王丸、左京大夫。義重。三好長慶の弟十河一存の子で初名は重存。長慶の子義興が早世したため、長慶の養子となり、長慶の死後、三好氏の家督を継ぐ。三好三人衆や松永久秀の後見を受け、1565年には彼らとともに足利義輝を襲殺し、キリスト教宣教師を京から追放した。三人衆と久秀が不仲となると、初めは三人衆、のち久秀と結んで互いに争い、1567年の東大寺大仏殿の戦いでは大仏が焼けた。翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀とともに信長に降り、河内北半国を与えられ、若江城主となった。また信長の媒酌で足利義昭の妹を娶る。その後は信長に背いて信長包囲網に加わり、織田方で河内の畠山昭高や摂津の細川昭元と戦う。1573年、足利義昭が京から追放されると、これを保護するが、佐久間信盛に攻められて若江城は落城、妻子とともに自害し、ここに三好氏の嫡流は絶えた。三好家の血は十河氏に受け継がれていくことになる。
のち、大谷刑部吉継が三好義継と同じ読みであることを忌んで、関ヶ原の戦いの前に「吉隆」と改めたという話があるから、当時の評価も芳しくなかったようである。
三好三人衆 【みよしさんにんしゅう】
松永久秀と融合すると化学反応が起こって、将軍だって殺しちゃうし東大寺だって燃やしちゃう人々だが、具体的には、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人である。

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だいたい、悪いことをするのはこの人たちということにされる。
三好長逸 【みよしながゆき】 ?-1573?
孫四郎、長縁。従四位下日向守。北斎と号す。系図的には三好之長の子長則の子とされている。長慶の父元長のいとこに当たる。早くから長慶に従って畿内で戦う。1558年以降は山城飯岡城主となり、山城の南半分を統治した。1564年に長慶が死去すると、一族の長老格として義継を補佐し、1565年には他の三人衆や松永久秀らとともに足利義輝を暗殺するに至る。その後は久秀、さらに義継と対立。1567年には東大寺で久秀と戦い、大仏殿は延焼してしまう(どちらが火を放ったかについては議論がある)。
翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、近江の六角義賢と結んで抵抗しようとするも、六角方が敗れ、久秀や義継は信長に降伏したため、長逸は阿波に逃れた。1569年、三人衆は本圀寺の足利義昭を襲撃するも、信長方の必死の防戦に遭い、信長自身も急ぎ岐阜から駆け付けたため、襲撃は失敗に終わった。1570年、再度兵を挙げ、野田城・福島城で戦い、石山本願寺の支援を受けて信長に抵抗する。これは足掛け十一年も続いた信長と本願寺側の石山合戦の始まりでもある。一時は摂津を支配するが、年末には和議が成立している。その後も信長包囲網の一翼として信長方と戦い続けるが、1573年に敗北し、その後の行方は不明となった(戦死したともいう)

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2012年4月の新武将。迅速行軍はスキル合成用か。
三好政康 【みよしまさやす】 1528?-1615?
初め政生。下野守。号は釣閑斎、法名は宗渭(そうい)、清海(せいかい)入道。三好頼澄の子で、長慶の父元長のいとこに当たる(系図については諸説ある)。三好三人衆の一人として行動するが、信長の上洛に敗れて逃亡する。その後、秀吉、秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死した三好清海入道が政康の後の姿という俗説がある。いわゆる「真田十勇士」の一人である。

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得物は筋金を打った八尺ほどの樫の棒。秀頼と幸村の大坂城脱出を見届けると、腹を切り、みずから首を刎ねたという。
三好政勝 【みよしまさかつ】 1536-1631
政長(宗三)の子。三好之長の甥に当たる(諸説ある)。右衛門大夫、因幡守。一任。法名は為三(いさ)。父を殺した長慶と対立することもあったが、のち和解。1570年には信長に降り、摂津豊島郡で所領を与えられた。のち秀吉に仕え、さらに家康に属して会津攻めに参加し、大坂の陣にも徳川方として参加し、九十六歳の長命を保った。真田十勇士の一人である三好「伊三」入道のモデルとされる。
次回からは松永久秀。
三好氏特集(後編)
三好義継 【みよしよしつぐ】 1549-73
熊王丸、左京大夫。義重。三好長慶の弟十河一存の子で初名は重存。長慶の子義興が早世したため、長慶の養子となり、長慶の死後、三好氏の家督を継ぐ。三好三人衆や松永久秀の後見を受け、1565年には彼らとともに足利義輝を襲殺し、キリスト教宣教師を京から追放した。三人衆と久秀が不仲となると、初めは三人衆、のち久秀と結んで互いに争い、1567年の東大寺大仏殿の戦いでは大仏が焼けた。翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀とともに信長に降り、河内北半国を与えられ、若江城主となった。また信長の媒酌で足利義昭の妹を娶る。その後は信長に背いて信長包囲網に加わり、織田方で河内の畠山昭高や摂津の細川昭元と戦う。1573年、足利義昭が京から追放されると、これを保護するが、佐久間信盛に攻められて若江城は落城、妻子とともに自害し、ここに三好氏の嫡流は絶えた。三好家の血は十河氏に受け継がれていくことになる。
のち、大谷刑部吉継が三好義継と同じ読みであることを忌んで、関ヶ原の戦いの前に「吉隆」と改めたという話があるから、当時の評価も芳しくなかったようである。
三好三人衆 【みよしさんにんしゅう】
松永久秀と融合すると化学反応が起こって、将軍だって殺しちゃうし東大寺だって燃やしちゃう人々だが、具体的には、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人である。
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だいたい、悪いことをするのはこの人たちということにされる。
三好長逸 【みよしながゆき】 ?-1573?
孫四郎、長縁。従四位下日向守。北斎と号す。系図的には三好之長の子長則の子とされている。長慶の父元長のいとこに当たる。早くから長慶に従って畿内で戦う。1558年以降は山城飯岡城主となり、山城の南半分を統治した。1564年に長慶が死去すると、一族の長老格として義継を補佐し、1565年には他の三人衆や松永久秀らとともに足利義輝を暗殺するに至る。その後は久秀、さらに義継と対立。1567年には東大寺で久秀と戦い、大仏殿は延焼してしまう(どちらが火を放ったかについては議論がある)。
翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、近江の六角義賢と結んで抵抗しようとするも、六角方が敗れ、久秀や義継は信長に降伏したため、長逸は阿波に逃れた。1569年、三人衆は本圀寺の足利義昭を襲撃するも、信長方の必死の防戦に遭い、信長自身も急ぎ岐阜から駆け付けたため、襲撃は失敗に終わった。1570年、再度兵を挙げ、野田城・福島城で戦い、石山本願寺の支援を受けて信長に抵抗する。これは足掛け十一年も続いた信長と本願寺側の石山合戦の始まりでもある。一時は摂津を支配するが、年末には和議が成立している。その後も信長包囲網の一翼として信長方と戦い続けるが、1573年に敗北し、その後の行方は不明となった(戦死したともいう)
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
2012年4月の新武将。迅速行軍はスキル合成用か。
三好政康 【みよしまさやす】 1528?-1615?
初め政生。下野守。号は釣閑斎、法名は宗渭(そうい)、清海(せいかい)入道。三好頼澄の子で、長慶の父元長のいとこに当たる(系図については諸説ある)。三好三人衆の一人として行動するが、信長の上洛に敗れて逃亡する。その後、秀吉、秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死した三好清海入道が政康の後の姿という俗説がある。いわゆる「真田十勇士」の一人である。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
得物は筋金を打った八尺ほどの樫の棒。秀頼と幸村の大坂城脱出を見届けると、腹を切り、みずから首を刎ねたという。
三好政勝 【みよしまさかつ】 1536-1631
政長(宗三)の子。三好之長の甥に当たる(諸説ある)。右衛門大夫、因幡守。一任。法名は為三(いさ)。父を殺した長慶と対立することもあったが、のち和解。1570年には信長に降り、摂津豊島郡で所領を与えられた。のち秀吉に仕え、さらに家康に属して会津攻めに参加し、大坂の陣にも徳川方として参加し、九十六歳の長命を保った。真田十勇士の一人である三好「伊三」入道のモデルとされる。
次回からは松永久秀。
ああ、松田直樹が死んでしまった・・・。
2日に倒れてからずっと気にしていたのですが、複雑な思いです。
意識戻らず…無念 松田直樹選手 家族に看取られ死去(スポニチアネックス)
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/08/04/kiji/K20110804001345890.html
別にファンではなかった(むしろあまり好きな選手ではなかった)のですが、
サッカー日本代表DFとして、能力のある選手だったじゃないですか。
にしても、34歳で急性心筋梗塞で急死って、年も近いし気になります。
ツイッターでのみんなの悲しみや悔しさを見ると泣けてきます。
本来の意味ではありませんが、若くして亡くなると、
その人の念というもの(正しい言い方ではない)が残って、
生きている人はそれを感じるわけです。
きっとあの人はこういうことをしたかったんだろう、ああいうこともしたかったんだろう、
と思いを巡らせるわけです。
それが無念という思いにつながって、果たせなかったことに悲しみを抱くのです。
2日に倒れてからずっと気にしていたのですが、複雑な思いです。
意識戻らず…無念 松田直樹選手 家族に看取られ死去(スポニチアネックス)
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/08/04/kiji/K20110804001345890.html
別にファンではなかった(むしろあまり好きな選手ではなかった)のですが、
サッカー日本代表DFとして、能力のある選手だったじゃないですか。
にしても、34歳で急性心筋梗塞で急死って、年も近いし気になります。
ツイッターでのみんなの悲しみや悔しさを見ると泣けてきます。
本来の意味ではありませんが、若くして亡くなると、
その人の念というもの(正しい言い方ではない)が残って、
生きている人はそれを感じるわけです。
きっとあの人はこういうことをしたかったんだろう、ああいうこともしたかったんだろう、
と思いを巡らせるわけです。
それが無念という思いにつながって、果たせなかったことに悲しみを抱くのです。
「戦国人物紹介」
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。

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目が緑色に光っています・・・。
長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。

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元親の嫡男として将来を期待されたが戦死。長宗我部家の家運が傾くきっかけとなる。
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。
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目が緑色に光っています・・・。
長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。
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