兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
悪人を主人公にした小説というものがあって、それをピカレスク(悪漢小説)というのだが、悪人は悪人で人気がある。久秀の場合は妙な愛嬌もあって複雑な人物なのだが、そこも人気となる理由の一つだろう。単なる「悪人」ではない。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (後編)
文化人としての側面
最近では伊丹城の方が早いという説が出ているが、天守閣を創った嚆矢(さきがけ)とされる。安土城の場合は天主と呼ばれるが、このあたりも信長と久秀の近さを感じさせる。千利休と同じく茶の湯を武野紹鴎に学び、名物の茶器を集めて茶会を開いていたという。
唯物論者
真の存在は心ではなく単なる物質とするのが唯物(論)で、宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客体的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の一つの機能に過ぎないという説(『新明解国語辞典』)である。信貴山城陥落の直前、九月二十九日に彗星が現れた。久秀の家臣たちは、これはいままで久秀が神仏を顧みなかったことに対する天罰だと言って恐れたが、久秀は「彗星は天の運行に従って現れるだけで、自分や信長だって天から見れば塵芥同然、相手にもされぬわ」と平然としていたという。信長は最後に自己神格化をやってしまうが、久秀のこの考え方も当時としては極めて異質な、唯物論的考え方である。
幽霊は怖い?
果心居士(かしんこじ)というと、戦国時代の幻術師で、『三国志』でいうところの左慈(さじ)のような存在である。池に笹の葉を撒くと、魚になって泳ぎだしたとかその類である。大和の久秀とは親交があったようで、久秀に招かれると、「戦場で幾度となく修羅場を乗り越えてきたが、恐怖というものを味わったことがない。そなたの術でわしに恐ろしい思いをさせてみよ」と言われた。そこで、果心居士は人払いをさせると、部屋の灯りを消し、久秀の亡妻の幽霊を出現させたという。さすがにこれには久秀も「もうやめよ」と制したという。久秀の亡妻と言えば、三好長慶の娘だろうから、三好一族を抹殺した久秀には居心地が悪かっただろう。まあ、この話(『玉掃木』『醍醐随筆』)は果心居士の幻術の方が強調されていて、久秀は引き合いとして登場しただけに過ぎないのではないか。当時、もっとも神仏や幽霊の類を信じなさそうな人種である。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
自爆スキルかと思いきや、防御用か。
養生を心掛けていた久秀
主家である三好長慶の弟、安宅冬康が鈴虫を兄に送ったことは書いたが、久秀も鈴虫を育てていた。普通、鈴虫は七月頃に成虫となり、十月までには大半が死亡するが、飼育するとそれ以上長生きすることもある。久秀も鈴虫の飼育に凝っており、「鈴虫でさえうまく育てれば長生きする、人間も養生すれば百二十五歳まで生きられる」と言っていたという。もちろん、人間の養生にも気を使っており、セックスの詳細なハウツー本まで書いているほどである。
死ぬときも養生
久秀は中風(脳出血後に起こる体のまひ)の予防のために毎日時間を決めて頭の上に灸をすえていた。切腹する直前でも家臣に灸の用意をさせ、家臣から「これから切腹するのに灸でもないでしょう」と言われたが、「いざ切腹するのに中風のせいで失敗したら臆病だと思われる。いままでの武名に傷がつくではないか」と、いつも通りに灸をすえさせてから腹を切ったという。
悪人を主人公にした小説というものがあって、それをピカレスク(悪漢小説)というのだが、悪人は悪人で人気がある。久秀の場合は妙な愛嬌もあって複雑な人物なのだが、そこも人気となる理由の一つだろう。単なる「悪人」ではない。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (後編)
文化人としての側面
最近では伊丹城の方が早いという説が出ているが、天守閣を創った嚆矢(さきがけ)とされる。安土城の場合は天主と呼ばれるが、このあたりも信長と久秀の近さを感じさせる。千利休と同じく茶の湯を武野紹鴎に学び、名物の茶器を集めて茶会を開いていたという。
唯物論者
真の存在は心ではなく単なる物質とするのが唯物(論)で、宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客体的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の一つの機能に過ぎないという説(『新明解国語辞典』)である。信貴山城陥落の直前、九月二十九日に彗星が現れた。久秀の家臣たちは、これはいままで久秀が神仏を顧みなかったことに対する天罰だと言って恐れたが、久秀は「彗星は天の運行に従って現れるだけで、自分や信長だって天から見れば塵芥同然、相手にもされぬわ」と平然としていたという。信長は最後に自己神格化をやってしまうが、久秀のこの考え方も当時としては極めて異質な、唯物論的考え方である。
幽霊は怖い?
果心居士(かしんこじ)というと、戦国時代の幻術師で、『三国志』でいうところの左慈(さじ)のような存在である。池に笹の葉を撒くと、魚になって泳ぎだしたとかその類である。大和の久秀とは親交があったようで、久秀に招かれると、「戦場で幾度となく修羅場を乗り越えてきたが、恐怖というものを味わったことがない。そなたの術でわしに恐ろしい思いをさせてみよ」と言われた。そこで、果心居士は人払いをさせると、部屋の灯りを消し、久秀の亡妻の幽霊を出現させたという。さすがにこれには久秀も「もうやめよ」と制したという。久秀の亡妻と言えば、三好長慶の娘だろうから、三好一族を抹殺した久秀には居心地が悪かっただろう。まあ、この話(『玉掃木』『醍醐随筆』)は果心居士の幻術の方が強調されていて、久秀は引き合いとして登場しただけに過ぎないのではないか。当時、もっとも神仏や幽霊の類を信じなさそうな人種である。
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自爆スキルかと思いきや、防御用か。
養生を心掛けていた久秀
主家である三好長慶の弟、安宅冬康が鈴虫を兄に送ったことは書いたが、久秀も鈴虫を育てていた。普通、鈴虫は七月頃に成虫となり、十月までには大半が死亡するが、飼育するとそれ以上長生きすることもある。久秀も鈴虫の飼育に凝っており、「鈴虫でさえうまく育てれば長生きする、人間も養生すれば百二十五歳まで生きられる」と言っていたという。もちろん、人間の養生にも気を使っており、セックスの詳細なハウツー本まで書いているほどである。
死ぬときも養生
久秀は中風(脳出血後に起こる体のまひ)の予防のために毎日時間を決めて頭の上に灸をすえていた。切腹する直前でも家臣に灸の用意をさせ、家臣から「これから切腹するのに灸でもないでしょう」と言われたが、「いざ切腹するのに中風のせいで失敗したら臆病だと思われる。いままでの武名に傷がつくではないか」と、いつも通りに灸をすえさせてから腹を切ったという。
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「戦国人物紹介」
似た者同士とはいえ、信長と久秀では信長の方が明らかに実力が上である。天下統一を進めていく信長を久秀はどう見ていたのだろうか。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77.10.10 (中編)
1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、義弟の浅井長政が離反。信長は金ヶ崎城に秀吉らを殿軍(しんがり)として置き、琵琶湖の西、朽木越えで京を目指した。このとき、朽木谷の領主である朽木元綱を説いて信長に味方させたのが久秀である。逆に説けば信長を抹殺する絶好の機会であったのだが。しかし、信長に従順だったのはこの頃までで、翌年、信玄の西上が近づくと謀反の虫がうずいたのか、これに通じて徐々に信長から離反。1573年、足利義昭が信長に兵を挙げると、ともに反抗する。しかし、信玄は西上の途中で病死、武田軍は撤退する。足利義昭も敗れて京を追放され、久秀も大和の多聞山城を差し出して再び信長に降伏、剃髪して動意と号する。再度赦された久秀だが、地位は低下し、佐久間信盛の与力として大坂の本願寺攻めに加わることになる。
1577年、最後に叛いたのは謙信の上洛を期待してのものとされる。手取川の戦いで上杉軍が勝利する直前の謀反だが、上杉軍には上洛するだけの実力も計画もなく、久秀にしては勝算が薄いのに決起したという感じである。むしろ、織田家での地位が低下する中、信長に構ってほしくて謀反したのではないかとさえ思える。信長も松井友閑を派遣して理由を問いただそうとするのだが、久秀は会おうともしなかった。やむなく、信長は嫡子信忠に信貴山城を囲ませるのだが、平蜘蛛の茶釜を差し出せば赦すと、信長にしては寛大な条件を出している。しかし、久秀はこれを断ると、平蜘蛛の茶釜を粉々に叩き割って(あるいは爆破し)、切腹、爆死したという。死んだのは十月十日で、大仏殿が焼けた日のちょうど十年後であったことから、世の人は天罰だと噂しあったという。
人質であった久秀の孫二人(久通の子)は処刑されたが、歌人の松永貞徳も孫に当たる(養子をはさむようだが)。1581年、京で馬揃えがあったときに、当時十一歳の貞徳も見物に並んでいたが、そこで馬揃えの行列が詰まったことに怒る信長の大音声を聴いたという話が残っている。その子が朱子学者の松永尺五。

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ボンバーマン。
爆死は火薬あってのもので、当時の最先端のスタイルだが、のちに信長も本能寺で真似ている。
古天明平蜘蛛 【こてんみょうひらぐも】
下野安蘇郡天明から産出した鉄から作った茶釜を「天明釜」といい、このうち正長から天文年間のものを「古天明」、慶長年間のころまでのものを「後天明」と呼ぶ。「平蜘蛛」の名は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていることから、あるいは、湯がわいてくると、釜の底に鋳された蜘蛛が生きてうごめくように見えたことから名付けられたともいう。
久秀は信長には「この平蜘蛛と白髪首は渡さぬ」と釜に火薬を詰め、鎖で首からかけ、釜とともに爆死したという。一方、釜は現存している(戦後、がれきの中から探し出して修復した)という説もあり、私も写真で見たことがある。蜘蛛が這いつくばっているような形にはあまり見えない。それにしても、名器の価値がわかる人が名器を壊すだろうか。
似た者同士とはいえ、信長と久秀では信長の方が明らかに実力が上である。天下統一を進めていく信長を久秀はどう見ていたのだろうか。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77.10.10 (中編)
1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、義弟の浅井長政が離反。信長は金ヶ崎城に秀吉らを殿軍(しんがり)として置き、琵琶湖の西、朽木越えで京を目指した。このとき、朽木谷の領主である朽木元綱を説いて信長に味方させたのが久秀である。逆に説けば信長を抹殺する絶好の機会であったのだが。しかし、信長に従順だったのはこの頃までで、翌年、信玄の西上が近づくと謀反の虫がうずいたのか、これに通じて徐々に信長から離反。1573年、足利義昭が信長に兵を挙げると、ともに反抗する。しかし、信玄は西上の途中で病死、武田軍は撤退する。足利義昭も敗れて京を追放され、久秀も大和の多聞山城を差し出して再び信長に降伏、剃髪して動意と号する。再度赦された久秀だが、地位は低下し、佐久間信盛の与力として大坂の本願寺攻めに加わることになる。
1577年、最後に叛いたのは謙信の上洛を期待してのものとされる。手取川の戦いで上杉軍が勝利する直前の謀反だが、上杉軍には上洛するだけの実力も計画もなく、久秀にしては勝算が薄いのに決起したという感じである。むしろ、織田家での地位が低下する中、信長に構ってほしくて謀反したのではないかとさえ思える。信長も松井友閑を派遣して理由を問いただそうとするのだが、久秀は会おうともしなかった。やむなく、信長は嫡子信忠に信貴山城を囲ませるのだが、平蜘蛛の茶釜を差し出せば赦すと、信長にしては寛大な条件を出している。しかし、久秀はこれを断ると、平蜘蛛の茶釜を粉々に叩き割って(あるいは爆破し)、切腹、爆死したという。死んだのは十月十日で、大仏殿が焼けた日のちょうど十年後であったことから、世の人は天罰だと噂しあったという。
人質であった久秀の孫二人(久通の子)は処刑されたが、歌人の松永貞徳も孫に当たる(養子をはさむようだが)。1581年、京で馬揃えがあったときに、当時十一歳の貞徳も見物に並んでいたが、そこで馬揃えの行列が詰まったことに怒る信長の大音声を聴いたという話が残っている。その子が朱子学者の松永尺五。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
ボンバーマン。
爆死は火薬あってのもので、当時の最先端のスタイルだが、のちに信長も本能寺で真似ている。
古天明平蜘蛛 【こてんみょうひらぐも】
下野安蘇郡天明から産出した鉄から作った茶釜を「天明釜」といい、このうち正長から天文年間のものを「古天明」、慶長年間のころまでのものを「後天明」と呼ぶ。「平蜘蛛」の名は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていることから、あるいは、湯がわいてくると、釜の底に鋳された蜘蛛が生きてうごめくように見えたことから名付けられたともいう。
久秀は信長には「この平蜘蛛と白髪首は渡さぬ」と釜に火薬を詰め、鎖で首からかけ、釜とともに爆死したという。一方、釜は現存している(戦後、がれきの中から探し出して修復した)という説もあり、私も写真で見たことがある。蜘蛛が這いつくばっているような形にはあまり見えない。それにしても、名器の価値がわかる人が名器を壊すだろうか。
東京コメ先物、初値付ける=12年1月決済物、1万7280円(時事通信社)
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2011080900173
先物取引って言葉、ご存知でしょうか。
将来の価格を予想していまの時点で売買の契約を結ぶものです。
江戸時代、大坂の堂島には米市場(堂島米会所)があって、全国の米の取引が行われていました。もちろん、現物取引もあったのですが、注目されるべきは江戸時代、すでに先物取引が行われていたことです。1730年のことで、ヨーロッパよりも早いものです(先渡し取引がなく、差金決済を含んだ先物取引は日本が初。細かく説明するとくどくなるので簡単に)
昨日、72年ぶりに米の先物取引が復活し、東京穀物商品取引所と関西商品取引所で取引が行われましたが、前者では買い注文が殺到して値がつきませんでした(株にしろ、商品にしろ、売り手と買い手がいないと値がつかない)。福島の原発事故や、新潟の豪雨によるコメの供給不安が価格の高騰を招いたようですが、どうしても投機的側面もあるので、実態と離れた値段がつくと心配になりますね。
あれ、なんかブログのエディタがつかいづらくなったなあ・・・。
つづきはないのに、「つづきはこちら」って出るし・・・。
IE9もツイッターもそうだけど、なんで使いづらく変わるかね。
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2011080900173
先物取引って言葉、ご存知でしょうか。
将来の価格を予想していまの時点で売買の契約を結ぶものです。
江戸時代、大坂の堂島には米市場(堂島米会所)があって、全国の米の取引が行われていました。もちろん、現物取引もあったのですが、注目されるべきは江戸時代、すでに先物取引が行われていたことです。1730年のことで、ヨーロッパよりも早いものです(先渡し取引がなく、差金決済を含んだ先物取引は日本が初。細かく説明するとくどくなるので簡単に)
昨日、72年ぶりに米の先物取引が復活し、東京穀物商品取引所と関西商品取引所で取引が行われましたが、前者では買い注文が殺到して値がつきませんでした(株にしろ、商品にしろ、売り手と買い手がいないと値がつかない)。福島の原発事故や、新潟の豪雨によるコメの供給不安が価格の高騰を招いたようですが、どうしても投機的側面もあるので、実態と離れた値段がつくと心配になりますね。
あれ、なんかブログのエディタがつかいづらくなったなあ・・・。
つづきはないのに、「つづきはこちら」って出るし・・・。
IE9もツイッターもそうだけど、なんで使いづらく変わるかね。
筒井順慶も最初から信長方じゃなかったんですよね。
本能寺の変の時の洞ヶ峠の日和見(事実ではない)で知られていますが、
秀吉政権でどうなったかもあまり知られてないんですよね。
そのうち取り上げます。
休暇も半分を消化ということで、蒸し暑い部屋の中で、
送風機を全開にしながら高校野球を見ています。
白熱した試合が一日に四試合も見られるなんて、
こんな幸せなことはありません。
休暇明け、社会復帰できるのか?
本能寺の変の時の洞ヶ峠の日和見(事実ではない)で知られていますが、
秀吉政権でどうなったかもあまり知られてないんですよね。
そのうち取り上げます。
休暇も半分を消化ということで、蒸し暑い部屋の中で、
送風機を全開にしながら高校野球を見ています。
白熱した試合が一日に四試合も見られるなんて、
こんな幸せなことはありません。
休暇明け、社会復帰できるのか?
「戦国人物紹介」
三悪事
「この老人は世の人がなしがたい事を三つなした者である。一つは主君の三好を殺したこと。二つは将軍を殺したこと。三つは東大寺の大仏殿を焼いたこと」
信長が家康に語った久秀評である。久秀は冷や汗をかいて平伏していたというが、私は信長のこの発言にあまり悪意を感じない。むしろこれくらいのことはやって当然というところではないだろうか。信長とて尾張守護の斯波氏を追放しているし、三好長慶も主家の細川氏と対立してこれを倒している。のちに信長は足利義昭を京から追放し、また比叡山を焼き討ちし、一向宗との戦いでは何万人もの大量殺戮をなしている。
気の合う二人
従来、信長が久秀を辱めた場面とされてきたが、どうも信長が久秀を責めているという感じはしない。世の人は久秀のことを「悪人」と言うが、信長の場合、むしろ感心しているのではないか。久秀は信長に二度叛き、三度戦ったが、この二人、似た者同士、気が合ったのではないだろうか。信長も最期は爆死するが、これは久秀リスペクトの一面(あるいはイミテーション)さえあると思う。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (前編)
弾正(だんじょう)。弾正忠、従四位下弾正少弼、弾正台の唐名から「霜台(そうだい)」とも称すという。また山城守。
前半生は不明な部分が多い。京の西岡の商人出身とも言われ、斎藤道三(の父)と同郷で旧知という俗説もある。初め三好長慶に仕えて右筆(ゆうひつ、書記官だがそれに留まらない)。1549年、長慶が京の諸政を掌握してからは、三好家の家宰として台頭、弾正忠となり、霜台と称される。のちに長慶は娘を久秀に嫁がせている。大和信貴山、のち多聞山に移り大和北部に勢力を築く。幕臣としては長慶の生前から長慶と匹敵する地位を認められていた。三好一族の相次ぐ死去には久秀の暗殺説もささやかれるが、次第に主家をしのいで権勢をふるう。
長慶の死後は三好三人衆とともに、義継を擁立して、1565年、足利義輝を殺した。久秀は子の久通を派遣し直接襲撃にはかかわっていないが、主導したことは間違いないから、久秀が殺したといっても誤りではない。ついでキリシタン宣教師を追放する。しかし、同年、弟の長頼が丹波で荻野直正(赤井直正)を攻めて敗死し、畿内の覇権を狙った久秀の戦略は狂いを生じることになる。1566年になると、三好三人衆と対立、三好家中で孤立し、筒井順慶に攻められて一時は堺に隠れる窮地に追い込まれるが、反撃に転じて東大寺に布陣していた三人衆を攻撃、このときに大仏殿を焼く(三人衆側が火を放ったともいう)。
1568年、信長が上洛してくると、名物の茶器である九十九髪茄子(つくもがみなす)を差し出して信長に従う。兄の仇であったことから将軍義昭は猛反対するが、信長は久秀の恭順を受け容れ、大和国切り取り次第の許しを与える(身分としては信長の家臣ではなく幕臣である)。大和を任せられたものの、大和には筒井順慶ら国衆がおり、大和の支配はなかなか進まなかった。
九十九髪茄子 【つくもがみなす】
足利義満が所有した唐物の茶入れ。付藻茄子、松永茄子などとも呼ばれる。唐物の茶入れでは茄子は肩衝(かたつき)以上に珍重された。『伊勢物語』の「百年(ももとせ)に一とせ(一年)足らぬ九十九髪 我を恋ふらしおもかけ(面影)に見ゆ」の歌にちなむという。「百」から「一」を取れば「白」になることから、九十九髪とは白髪の意味である。
義満以降は所有者が転々とし、のちに松永久秀が手に入れる。久秀が信長に降った際に、信長に献上されており、『信長公記』には「我朝無双」と記されている。以後は信長が本能寺の変まで所有したという。変により灰燼に帰したという説もあるが、その後は豊臣家が所有するともいう。しかし、大坂落城で破損、家康は塗工の藤重家に預け、漆塗りによって修復させ、以後、藤重家が伝えた。明治になって岩崎弥之助(弥太郎)が所有し、現在は東京の静嘉堂文庫美術館(三菱系の美術館)で保管されている。
外部リンク(所蔵品を見ることができる) 静嘉堂文庫美術館
久秀とは関係ないのだが、曜変天目の青は美しい。
三悪事
「この老人は世の人がなしがたい事を三つなした者である。一つは主君の三好を殺したこと。二つは将軍を殺したこと。三つは東大寺の大仏殿を焼いたこと」
信長が家康に語った久秀評である。久秀は冷や汗をかいて平伏していたというが、私は信長のこの発言にあまり悪意を感じない。むしろこれくらいのことはやって当然というところではないだろうか。信長とて尾張守護の斯波氏を追放しているし、三好長慶も主家の細川氏と対立してこれを倒している。のちに信長は足利義昭を京から追放し、また比叡山を焼き討ちし、一向宗との戦いでは何万人もの大量殺戮をなしている。
気の合う二人
従来、信長が久秀を辱めた場面とされてきたが、どうも信長が久秀を責めているという感じはしない。世の人は久秀のことを「悪人」と言うが、信長の場合、むしろ感心しているのではないか。久秀は信長に二度叛き、三度戦ったが、この二人、似た者同士、気が合ったのではないだろうか。信長も最期は爆死するが、これは久秀リスペクトの一面(あるいはイミテーション)さえあると思う。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (前編)
弾正(だんじょう)。弾正忠、従四位下弾正少弼、弾正台の唐名から「霜台(そうだい)」とも称すという。また山城守。
前半生は不明な部分が多い。京の西岡の商人出身とも言われ、斎藤道三(の父)と同郷で旧知という俗説もある。初め三好長慶に仕えて右筆(ゆうひつ、書記官だがそれに留まらない)。1549年、長慶が京の諸政を掌握してからは、三好家の家宰として台頭、弾正忠となり、霜台と称される。のちに長慶は娘を久秀に嫁がせている。大和信貴山、のち多聞山に移り大和北部に勢力を築く。幕臣としては長慶の生前から長慶と匹敵する地位を認められていた。三好一族の相次ぐ死去には久秀の暗殺説もささやかれるが、次第に主家をしのいで権勢をふるう。
長慶の死後は三好三人衆とともに、義継を擁立して、1565年、足利義輝を殺した。久秀は子の久通を派遣し直接襲撃にはかかわっていないが、主導したことは間違いないから、久秀が殺したといっても誤りではない。ついでキリシタン宣教師を追放する。しかし、同年、弟の長頼が丹波で荻野直正(赤井直正)を攻めて敗死し、畿内の覇権を狙った久秀の戦略は狂いを生じることになる。1566年になると、三好三人衆と対立、三好家中で孤立し、筒井順慶に攻められて一時は堺に隠れる窮地に追い込まれるが、反撃に転じて東大寺に布陣していた三人衆を攻撃、このときに大仏殿を焼く(三人衆側が火を放ったともいう)。
1568年、信長が上洛してくると、名物の茶器である九十九髪茄子(つくもがみなす)を差し出して信長に従う。兄の仇であったことから将軍義昭は猛反対するが、信長は久秀の恭順を受け容れ、大和国切り取り次第の許しを与える(身分としては信長の家臣ではなく幕臣である)。大和を任せられたものの、大和には筒井順慶ら国衆がおり、大和の支配はなかなか進まなかった。
九十九髪茄子 【つくもがみなす】
足利義満が所有した唐物の茶入れ。付藻茄子、松永茄子などとも呼ばれる。唐物の茶入れでは茄子は肩衝(かたつき)以上に珍重された。『伊勢物語』の「百年(ももとせ)に一とせ(一年)足らぬ九十九髪 我を恋ふらしおもかけ(面影)に見ゆ」の歌にちなむという。「百」から「一」を取れば「白」になることから、九十九髪とは白髪の意味である。
義満以降は所有者が転々とし、のちに松永久秀が手に入れる。久秀が信長に降った際に、信長に献上されており、『信長公記』には「我朝無双」と記されている。以後は信長が本能寺の変まで所有したという。変により灰燼に帰したという説もあるが、その後は豊臣家が所有するともいう。しかし、大坂落城で破損、家康は塗工の藤重家に預け、漆塗りによって修復させ、以後、藤重家が伝えた。明治になって岩崎弥之助(弥太郎)が所有し、現在は東京の静嘉堂文庫美術館(三菱系の美術館)で保管されている。
外部リンク(所蔵品を見ることができる) 静嘉堂文庫美術館
久秀とは関係ないのだが、曜変天目の青は美しい。