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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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3・11から半年、9・11から10年。みなさんはあの日、どこで何をされていたでしょうか。

2001.9.11は会社から寮に帰ると、同僚たちが食堂のテレビでニュースにくぎ付けになっていました。航空機二機が相次いで世界貿易センタービルに激突。衝撃的な映像で、すぐには現実なのか幻なのか区別がつきませんでした。そして上から崩れていくビル。不謹慎ですが、ガラスの破片なのか、キラキラと舞い落ちるものを「美しい」と思ってニュース画面を眺めていました。もはや非現実的な光景です。これは事故などではなく、テロだろうと直感し、21世紀になったというのに、これから大変な時代に突入していくのだ、と思ったのを覚えています。

2011.3.11は金曜日で、午後3時間際、仕事も片付いて、会社の2階で後輩と話している最中でした。揺れには気付きましたが、縦揺れではなく、いままで感じたことのない長い長い横揺れで、それが何分間も続きました。2階の窓から外を眺め、街灯までが揺れているのを見ていました。北海道でこれでは、東北は(津波が来れば)甚大な被害を受けるのではないかと思うと同時に、東北にいる人々(親戚がいれば、友人もいる)の安否を気遣ったものです。次の日も出勤で、(次の日の昼のニュースだったと思う)日本全土を津波警報(大津波警報、津波注意報)が囲むのを見て、これが「日本沈没」なのだなあ、と少し現実離れした思いで見ていたのを覚えています。

犠牲を払わなければ価値観は変わらないのか、価値観を変えるのに犠牲が必要なのか。克服するにはまだまだ時間がかかりそうな気がします。
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大河ドラマには間に合わせましたw

「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(後編)

日本最高の野戦指揮官

それにしても、本戦で見せた家康の指揮官としての冴えである。誤算があろうと、戦いで勝たなければ天下取りに立ち上がった意味がない。家康も三万の徳川軍を率いていたが(旗本だけの兵で兵力として機能しなかっただろうという説は疑問)、秀忠軍が間に合わず、豊臣恩顧の大名の力を借りて戦に勝利することは、戦後の論功行賞で彼らに多くの領地を割かざるを得ない。福島や加藤といった豊臣恩顧の大名をどう扱うかという課題は秀忠、家光の代まで持ち越されることになるのだが。

この問題を抱えながら、秀忠軍の到着を待たず、決戦を強いて、わずか一日で勝利したことは戦機を見るに敏であったと言うほかない。先述のように、西軍には本戦に参加した軍以外にも軍勢がおり、中でも立花宗茂らの軍は本戦当日に大津城を落としているのである。秀忠軍を待っていたずらに開戦を先延ばしにすれば、戦意旺盛な立花宗茂らの軍勢一万五千が加わり、大きな脅威になったことは間違いない。



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鎮西の名将。高橋紹運の子で立花道雪の養子。「西の立花、東の本多(忠勝)」と謳われた。
本戦に参加していれば戦況を左右していたかもしれない。

逡巡する小早川秀秋
さらには戦闘中における小早川秀秋に対する恫喝とも言える発砲行為である。一歩間違えば、秀秋を敵に回しかねない行動である。もともと秀秋は親家康の立場であった。朝鮮出兵の軽率な行動で減封されそうになるところを家康のとりなしで救われている。成り行きで伏見城を攻めることになったため、家康に敵対することとなったが、伏見城落城後は去就が定まらず(三成に関白職を提示されたため、どちらに属すか迷ったとも言われる)、伊勢攻めにも加わらず、近江のあたりをうろうろして、最後は関ヶ原の戦場の南西にある松尾山の新城に、すでにいた西軍部隊を押しのけて入城した。三成としても本当に西軍に属しているのか不審だったであろう。大谷吉継も秀秋の動きには警戒していた。もちろん、家康も秀秋には東軍に属すよう工作しており、秀秋の陣中にも奥平貞治を目付として派遣していた。とにかく、家康の発砲が秀秋を東軍に味方させることになったのだから(銃声は聞こえなかったという説もあるが)、このあたりの駆け引きは巧みであると言わざるを得ない。



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警戒していた小早川秀秋の攻撃を受け、一時は押し戻すものの多勢に無勢で壊滅、
武将としては戦場でただ一人自刃。

補足
家康の率いる軍勢と秀忠の率いる軍勢は道を分かった時点でそれぞれ別々の備え(軍勢の配置)を成しており(状況に応じて再編成したはずである)、どちらが主力かという議論は意味がない。家康の率いた軍勢は旗本ばかり三万で弱かったという説もあるが、軍勢を率いるだけの武将はそろっており、弱兵と見なすことはできない。
「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(中編)

展開する両軍
下野の小山会議で、会津攻めに従った軍勢の大半が(豊臣家の家臣である)家康と行動を共にし、(豊臣家の家臣である)三成らを討つことを約した。その後、家康は江戸に戻ったが、秀忠は宇都宮に残り、上杉勢に備えた。この時点で、この方面の総大将は秀忠である。家康の二男結城秀康がこの任に代わったのはこれより一ヶ月ほど後のことで、秀忠は三万余の軍勢を率いて西に向かうことになる。

関ヶ原の戦いというと、九月十五日の美濃関ヶ原での決戦だけを思い浮かべがちだが、両軍は各地で戦闘を繰り広げていた。言うまでもなく、東北では上杉家と最上家が戦っていたし、九州では黒田如水が大友家旧臣と戦っていた。畿内でも複数の場所で戦いがあった。家康家臣の鳥居元忠らが籠城する伏見城を落城させた西軍の一部はその後、伊賀、伊勢に進軍し、伊賀上野の筒井定次(順慶の養子)、伊勢安濃津の富田信高らを降伏させ、関ヶ原へと向かった。このほか、丹後では細川幽斎(忠興の父)がこもる田辺城を小野木重次(公郷)ら一万五千の兵が囲み(のちに勅命により講和、開城)、京極高次(室は淀殿の妹、江の姉)の近江大津城は立花宗茂ら一万五千の兵が攻めていた(本戦当日に開城)。東軍も秀忠の軍勢が中山道を進んでいたが、本戦には間に合わず、両軍とも戦力の集中に成功したとは言えない。天下を二分した戦いがわずか一日で終わると考えていなかったこともあろう。現に決戦以前に大垣城を前に対陣が続いていたし、小牧長久手の戦いでも両軍の対陣が半年に及んでいる。



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芸は身を助く。

秀忠軍の行動
秀忠軍の当初の目的は中山道筋の西軍の攻撃で、これはいうまでもなく、真田昌幸のこもる信濃上田城を攻略することである。上田城は中山道からは離れており、この城を落とさなければ西に向かえないという位置にはない。昌幸の挑発によって秀忠軍が上田に向かったわけではなく、秀忠軍はみずから上田城の攻略に向かったのである。

しかし、美濃方面での情勢が急変する。攻略に時間を要すると思われていた西軍方の岐阜城がわずか一日で陥落したのである(城主は織田秀信。幼名三法師、信長の嫡孫)。決戦の機運が高まり、家康は秀忠へ西上を促す使者・大久保忠益(忠世、忠佐兄弟のいとこに当たる)を送るが、忠益は大雨に阻まれて秀忠の元へ到着するのが遅れてしまった。秀忠の元に着いたのが九月の九日で、本戦まで一週間しかない。秀忠が西へ向かった時点で、すでに本戦に間に合うことは不可能だった。これを真田昌幸が戦巧者だったとか、秀忠が指揮官として無能だったと評価するのは誤りである。秀忠の責任ではない。



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上田城で二度、徳川軍を退けた「徳川キラー」であることは間違いない。
大河ドラマの予習としても。

「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(前編)

信玄、謙信、そして信長の亡き後、日本最高の野戦指揮官となると、徳川家康ということになるのだが、この人の指揮官としての能力が発揮されたのが関ヶ原の戦いである。いかんなく、とは言い難いのだが(それはこれから述べる)、この人でなければ、「徳川家」の勝利はなかったと言えよう。

関ヶ原の戦いについてすべてを語るとなると、かなりの紙幅を割かねばならないので、個人的に気になる部分について書いてみようと思う。特に今年の大河ドラマ、江の旦那である秀忠の弁護もしてみたい。関ヶ原の戦いに遅参したのは秀忠の責任ではない。

豊臣家中の対立
朝鮮出兵を主因とする豊臣家臣内の争いに目を付けた家康は両派(一般的に「武断派」「文治派」とされる)の対立に乗じる形でみずからの権力確立に向けて動き出す。利家死後の前田家を屈服させると、次は会津の上杉を攻めるべく東に向かった。これはあくまでも「豊臣家臣(その筆頭)」としての行動であり、家康が率いたのは豊臣家(正確に言えば、豊臣家を中心とする政治体制)の軍であって、家康の私兵ではない。また、家康が東に向かったことで、上方に生じた政治的・軍事的空白を突いて挙兵した石田三成らも豊臣家の軍を称しており、関ヶ原の戦いとは豊臣家臣同士の争いであった。「東軍=徳川」「西軍=豊臣」という認識は誤りである。関ヶ原の戦いに「勝利」した家康も、すぐに幕府を開いた(開けた)わけではないし、幕府を開いても豊臣家(を中心とする政治体制、それは戦後、極めて限定されたものとなったが)が消滅したわけでもない。大坂の陣まで二つの政治体制(「公儀」ともいう)が並存していたのである。ちなみに江戸時代の統治制度を「幕藩体制」と呼ぶが、豊臣家は徳川家の家臣ではないため、「豊臣家の大坂藩」は存在しない。ただし、大坂の陣後に松平忠明(父は長篠の戦いで知られる奥平信昌、母は家康の長女亀姫。家康の外孫に当たる)が短期間大坂城主を務めている(摂津大坂藩、十万石)。



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評価はともかく、この人なしで関ヶ原の戦いは始まらない。

予想以上に大きくなった西軍
さて、この戦い、家康にとっては当初から誤算続きであった。上方を留守にした間に三成ら反家康とも言うべき集団が挙兵することは企図通りであったが、その規模は家康の想定を上回るものであった。中でも五大老の一人であった毛利輝元が西軍の総大将に迎えられて大坂城に入ったことは衝撃であった。家康も毛利家の動向には注意を払っており、事前に輝元と起請文を交わし、「兄弟」のごとく親交することを約していたにもかかわらずである。三成が表に立たずに輝元を立てることは、三成に参謀として迎えられた大谷吉継の献策であるとされる(ただし、輝元の行動は毛利家中の意思統一のもとでなされた行動ではなく、吉川広家など家康派の人物も存在した)。また、もう一人の五大老、宇喜多秀家も家臣の一部を会津攻めに従軍させていたが、輝元の行動を見ると西軍に属した(会津攻めに従軍していた家臣の多くは東軍に転じた)。五大老のうち、前田利家はすでになく、子の利長は家康に屈服して母芳春院(おまつ)を人質として江戸に差し出していたが、家康は残る三人、毛利・宇喜多・上杉を敵に回したことになる。



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岡山での苛斂誅求は後に小早川秀秋にたたることになるのだが、それはまた別の話。
「ドラクエ10」が月額課金制らしい、という話を聞いてモチベーションダウン。

衰退著しいMMORPGじゃないかいw

アイテム課金とかあるかもねwww

高校時代からのゲーマー仲間で、あの「9」をコンプリートした友人との一致した結論は、

「スルー確定」

ですw

やらないっていうより、(通信環境がないから)できないかも。

事実とすれば、賢明な経営判断とは思えませんが。

あ、それで株価下がってるの?www
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