忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「戦国人物紹介」

■中国地方の戦い


NHKの大河ドラマ「毛利元就」では緒方拳が謀将尼子経久を演じていました。

毛利にやられる弱いイメージが先行する尼子ですが、その尼子にだって強い時代が。

032 尼子経久 【あまごつねひさ】 1458-1541

「尼子」は濁って「あまご」と読む。下剋上の典型。宇多天皇の子孫である近江佐々木源氏の一族で京極氏や六角氏とは同族になる。バサラ大名として知られる佐々木高氏(道誉)の孫である高久が近江犬上郡尼子郷を与えられて尼子氏を称す。高久の子持久が京極氏の守護代として近江から出雲に入ったと言われるがはっきりしない。持久の子清定(清貞)も出雲守護代として京極氏を助け、応仁の乱で京極氏が不在となると出雲で勢力を拡大する。

その子経久も守護代を継ぐが、社寺領を押領したり、幕府領の関銭徴収を怠ったりしたため、1484年、守護の京極政経によって守護代職を剥奪され、反尼子派の国人たちによって居城月山富田(がっさんとだ)城を追われた。しかし二年後には謀略をもって城を奪回する。ただし、このあたりは後世の軍記物の脚色が入っており、実情ははっきりしないが、覇権確立までは曲折があったようである。

1508年には後に敵対する大内義興(当時の西国の大大名、義隆の父)に従って上洛し、足利義稙を将軍に擁立する。帰国後は石見、伯耆、安芸、石見などにも勢力を伸ばし、十一カ国の太守と称されるが、実際、確保していたのは出雲と隠岐、伯耆くらいで、他は各地の大名との戦いが続いていた。1530年には三男の興久が反乱を起こし、鎮圧まで四年を要している。大内氏ともいったん和睦したあと再度戦いが続いており、1540年から翌年まで安芸吉田郡山城の毛利氏をめぐって戦うが、撤退する。この戦いは優勢だった尼子氏の勢力が衰え、大内氏の勢力が再び伸張し、毛利氏の地位が確立した戦いとされる。

経久の死後は孫の晴久が継ぎ、叔父の国久率いる新宮党が武力でこれを補佐するが、毛利元就の謀略にかかった晴久は新宮党を誅殺してしまう。これにより尼子氏はみずから衰退し、最終的に毛利氏に滅ぼされる。孫が跡を継いで、その孫を叔父が補佐するのは毛利氏と同じだが、一族の不和が尼子氏を滅ぼしたのは毛利氏と対照的である。皮肉なことに、尼子氏再興のために、山中鹿之助が擁した尼子勝久は新宮党の生き残りであった。



Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

大河ドラマ「毛利元就」では尼子経久が元就の師であるような描かれ方をしていたが、

戦国最高の謀将・毛利元就に示唆を与える人物であっただろうことは想像に難くない。


尼子晴久 【あまごはるひさ】 1514-60

出雲・隠岐・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作八カ国の守護。毛利元就と戦うが、元就の謀略にかかって一族の新宮党(国久ら)を滅ぼし、尼子氏の衰退に拍車をかけてしまう。元就との戦いの最中に月山富田城内で急死。



Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

PR
さあ、首位になったぞ。これからだ。


発明家、創業者、経営者?

何をした人かはほとんど知りませんが、

偉大な人が亡くなった衝撃の大きさは伝わります。

CEOを辞任したのが8月24日でしたから、

そこからしても早すぎる死でしたね。


こういう人だよ、って1,200字くらいで語ってほしい・・・。
さあ、ゲーム差無しまできたぞ!


さて、部屋にはプラズマクラスター付き加湿機を導入しました。

お部屋が潤って、菌を除去してくれるとうれしいな。

しばらく使ってみないと効果がわからないかな。
一般的に言われていたことを踏まえつつ。

炯眼の勝負師・落合博満監督に、ただひとつ足りなかったもの。(Number Web)

http://number.bunshun.jp/articles/-/162209/

最後の、「できなかったのか、できるのにしなかったのか……。」

は落合監督に対する最大にして最後の問いです。


野球はスポーツであり、勝負事ですから、

勝つことを最大の目標とすべきなのは言うまでもないことです。

一方で、相撲の時に語ったのと同様に、野球にも興行としての側面がありますから、

ファンサービスや球団経営も考慮しなければなりません。


それはわかっていながらも、

落合監督は、チームのスポークスマンとしての役割を果たすことが

できなかったのかもしれません。

できる能力の有無とはまた別の問題です。

できていたとしても、いまの事態が回避できていたかはわかりません。


多くを語る監督に人気があっても、チームが勝たなければ、

多くのファンはそのチームから離れていくでしょう。

多くを語る監督、それがファンにとって面白いものであっても、

万年最下位争いを続けるチームであれば、そんな監督はいらないでしょう。

監督に多くを語ってほしいのか、チームに勝ってほしいのか、

二律背反する命題ではありませんが、両立できるかもわかりません。


ここなんですよね。

仮の話を積み重ねても、それは仮の話でしかありません。

残るのは、監督に就任して以来、

(今年も含めてしまおう)八年連続Aクラスという素晴らしい結果だけです。

もしかしたら、そこにさらなる能力を求めてしまったのかもしれません。
スポーツのカテゴリーの半分が野球(中日ドラゴンズ)で、

残りがサッカーと、競走馬の墓碑銘になりつつありますね。


今回はニュースの引用なしですが、

夕方に株価を見ようと思って接したのが、「皇帝死亡」の報。

思わずツイッターで「おお、ルドルフ死んだ・・・」とつぶやくのが精一杯でした。


シンボリルドルフ。


(「ル」の音が実況泣かせだったことはあまり知られていない・・・

早口だと、「シンボリドルフ」になっちゃうんだよね)


日本競馬史上の最強馬に挙げられることも多い馬ですが、

今日のニュースの見出しは「無敗三冠馬」。

ああ、この馬も死んでしまえばこんなに簡単な言葉になってしまうのかと。

これではこの馬の強さは言い表せません。

と言いながら、天皇賞(秋)でギャロップダイナに負けたり、

海外では活躍できなかったり(あの頃は遠かった)、

最強というか、完璧というイメージとはちょっと違うかなあとも思います。


ニュースを見ながら、このころの写真は白黒だったのだなと思いつつ、

記憶は物心の付いたころ、初めて競馬中継を見たころにさかのぼります。

あの年(1983年)は、ミスターシービーが三冠を成し遂げた年で、

「何と強い馬がいるのだろう」と、子供ながらにファンになりましたが、

翌年、シンボリルドルフが三冠を達成して、

「三冠はそんなに簡単に取れるものなのか」と、

三冠の価値を一瞬疑ったのも事実です。

以降、シービーとルドルフは三冠馬対決をすることになりますが、

シービーはルドルフには一度も勝てませんでした。

判官贔屓的な要素もあって、シービーが好きだったんですよね。


ルドルフに話を戻すと、ルドルフと言えば、岡部幸雄(すべてのレースに騎乗した)で、

岡部と言えばルドルフ、というくらいお互いにとって代表する存在でしたが、

・・・えーと、岡部さんはもう騎手を引退していますが、

いまも競馬中継にはたまにゲストとして出演されています。

武豊の前にすごかった騎手です。


いまでは日本馬が世界最高峰の凱旋門賞に参加し、

ドバイWCで日本馬が勝つ時代になりましたが、

30年前は海外遠征なんてものは非常に困難でした(環境が整っていない)

そこで先駆的な役割を果たしのが岡部幸雄であり、

その例の一つがルドルフなんですよね。

レースの成績や産駒(トウカイテイオーが二冠馬として有名)だけでなく、

そういった、いまにつながる部分にもあらためて注目してほしいですね。


http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/35.html

皐月賞ではいきなり実況が噛んでますw

ライバルだったビゼンニシキとの対決にも注目。

ダービーでも噛みまくりじゃないかwww
[318]  [319]  [320]  [321]  [322]  [323]  [324]  [325]  [326]  [327]  [328
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]