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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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その能力を自分のために使えば、自由自在、

ほしいものは何でも得られると思うのだけど・・・。


・・・深いところでタバコだけがNG(笑)


自分の選択も正しいのか、いまだにわからないままだけどね・・・。

「答え(それは「応え」とも書く)」が得られないって苦しいことだよね。

続けることに、続けていいのかに、自信が持てなくなります。


と思っていると、メールが来たりしてね。

んー、自分は何を求めているんだろう。

わからなくなります。

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帰ってきたら、1点取られてる~ネルソン~;;

中継を見ようか、急いでお風呂に入ってこようか、

考えていると、SB(ソフトバンク)多村の2点ホームラン!

お風呂へ・・・。


多村は横浜(ベイスターズ)出身なんだよなあ。

そして、シリーズのキーマンとされる内川も。

内川なんて横浜でもSBでも首位打者じゃないですか。

両リーグで首位打者は素晴らしい成績です。

あ、中日の谷繁も横浜出身ねw


彼らの活躍を見て、四年連続最下位の横浜の選手はどう思うかですよね。

内川なんかは2008年、首位打者だったのに、チームは最下位。

個人としての成績が良ければ、なおさら優勝を争えるチームに行きたいと

思うんじゃないでしょうか。


で、昨日ツイッターでつぶやいていたマー君の話。

沢村賞自体は(ファンとしても)喜ばしいことですが、

沢村賞を出すチームが優勝争いにも絡めないとは、

マー君以外の他の選手がふがいないと。

監督も言われているほど大した能力じゃないしね。


普通は沢村賞クラスの投手が20勝前後の勝ち星をあげて、

そのほかに軸となる投手が二人くらいいて、二桁勝利をあげると、

あとは別の先発やリリーフで数勝と、

だいたいは優勝に絡めるくらいの勝ち星になるはずですが・・・。


マー君もいつかは優勝争いできるチームにと思っているのでは・・・

と思っているうちに海外に行っちゃったりしてね。
鳥居耀蔵(ようぞう)の実父は林述斎という人物で、美濃岩村藩主の松平乗蘊(のりもり)の子に生まれて、林家を継ぎました。耀蔵は1796年、述斎の三男に生まれ、旗本鳥居家の養子となり鳥居家を継ぎました。その後、老中の水野忠邦の天保の改革のもと、南町奉行として市中の取り締まりに当たり、水野の三羽烏と呼ばれるようになります。

さて、親子が似るのは当たり前ですが、学者の家を継ぐというのも、その家に代々受け継がれてきた系統が引き継がれるようです。林家は武家ではないので、林述斎は代々の林家の血を引いていませんが、弟子の中から選ばれて林家を継ぎました。ですから、耀蔵も林羅山の血を引いてはいないのですが、所々に羅山のような阿諛追従(おべっか使い)、学者ならではの頑固さを見る思いがします。

耀蔵は洋学者の江川太郎左衛門(英龍)と対立することがあり、生来の保守的な思考(松平定信の寛政異学の禁で、朱子学のみが正学とされ、それ以外は異学とされた。耀蔵の生家である林家は代々朱子学を講じる家)と相まって洋学者を毛嫌いするに至ります。これが蛮社の獄で渡辺崋山・高野長英らを処罰する遠因となりました。

南町奉行としての取り締まりは厳しく、おとり捜査を常用したことから、江戸の町民からは、「マムシの耀蔵」あるいは、官職の「甲斐守」の「甲斐(かい)」と名前の「耀蔵」の「耀」をひっくり返してつなげた「妖怪」と呼ばれて恐れられ、また嫌われました。当時、北町奉行だった遠山景元(金四郎、いわゆる「遠山の金さん」)が天保の改革に批判的な態度を取ると、耀蔵は水野と協力して、遠山を北町奉行から大目付に転任させます。大目付は北町奉行より上の役職ですが閑職で、表向きは昇進ながらも遠山を北町奉行から追ったのです。のち遠山は耀蔵の失脚後に南町奉行として復帰しています。

天保の改革が失敗に終わると、耀蔵は水野を売って反水野派に寝返り、水野が失脚したあともその地位を保ちます。しかし、半年後に水野が老中に返り咲くと一変、1845年、水野により有罪とされ、財産没収のうえ、讃岐丸亀の京極氏に預けられます。

長く幽閉の身となり、初めは厳しい監視がつきますが、幕末のころには監視も緩みます。林家の出であったことから学識豊富で、漢方の心得もあり、丸亀藩士に学問を教えたり、領民の治療をしたりしたため、丸亀では慕われていました。明治になると恩赦を受けますが、「自分は将軍によって配流の身となったのであるから、将軍の命を受けなければ自分の罪は解かれない」と言って周囲を困らせたと言います。その後は東京に戻り、明治六年に死去します。七十八歳。
前回の「戦国人物紹介」、亀井茲矩(これのり)というマイナー武将を取り上げて、その中で赤松氏の一族(斎村政広)に触れて、彼が援助していた藤原惺窩にまで筆が及びましたが、藤原惺窩は儒学者として有名な人物です。

歌道で有名な冷泉(れいぜい)家の出身で、ルーツをたどると藤原俊成(しゅんぜい、としなり)、藤原定家(ていか、さだいえ)父子、さらには藤原道長までさかのぼります。藤原惺窩は本姓の藤原氏を称しますが、冷泉家はその後も続いて、時雨亭文庫(しぐれていぶんこ)には古今和歌集や明月記などの国宝や重要文化財が多数所蔵されています。京都にあったことから、戦火も免れました。

さて、藤原惺窩ですが、下の名は「せいか」と読みますが、上は本姓の「ふじわら」ですから、本来は「ふじわらのせいか」と姓と名の間に「の」を入れて読むべきなのですが、通例で「ふじわらせいか」と呼ばれています。豊臣秀吉の「豊臣」も天皇から賜った姓ですから、「とよとみのひでよし」と呼ぶべき、あるいは実際にそう呼んだのではないか、という説、議論もあります。

前述の通り、藤原惺窩は冷泉家の出ですが、長男ではなかったため、出家して朱子学を学びました。近世の儒学の祖とされます(この当時は儒学=朱子学といってよい)。家康も儒学を講じ、仕えるよう依頼されたものの固辞し、弟子の林羅山を推挙します。この林羅山と言うのが阿諛追従(おべっか使い)の悪い学者で(笑)、大坂の陣の発端となった方広寺の鐘銘問題(「国家安康」「君臣豊楽」のこじつけというか言いがかり)は羅山の献策とされています。

秀吉には、足利義昭に自分を養子にするように頼んだが断られたため、関白職を望んだという俗説もありますが、これは林羅山の書いた『豊臣秀吉系譜』が出典とされています。源氏でなければ征夷大将軍になれないということはありませんし(藤原氏や皇族が征夷大将軍になった例がある)、幕府を開かなければ武家政権が開けないということもありません。秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、小牧・長久手の戦いで軍事的に敗北し、東国に勢力を拡げられなかったからにほかなりません。

信長は宣教師の説明で地球が球体であることを理解したと言いますが、羅山は納得できず、逆に宣教師を論破してしまったそうです。学者としては著名ですが、一風変わった逸話がいくつか残っています。

子孫は役職名から代々林大学頭(だいがくのかみ)を称し、江戸時代にあっては、文部科学大臣と東京大学総長を兼任したような立場になります。ちょっと遠いかな・・・林家(りんけ、と読む)の学問所が湯島聖堂にあって、湯島聖堂はのちに昌平坂学問所になって、これが東大の前身の一つとなります。

もう少し話を続けましょう。林家は学者の家系ですが、幕末に異色の人物を輩出しています。江戸の町民に「妖怪」と言われて恐れられた町奉行・鳥居耀蔵(ようぞう)という人物ですが、数奇な人生をたどったこの人については次回。
勝ったのでまた書いてしまいますが、

昨日の価値は中日の先発、チェンの粘り強い投球が

勝ちを呼びこんだといってもいいでしょう。

SBの和田も悔やまれるのは中日の和田に投じた一球だけでしたが。

(それまでノーヒットだったのに、最初の安打がホームランになってしまう)

スポーツの試合では目に見えない「流れ」というものがあって、

それが試合を左右することが往々にしてあります。

「主導権」と言っても近いかもしれません(ちょっと違う)


サッカーでも一方的に攻めているのに「流れ」が来ずに、

辛抱強く守っていた方が、パスカットから流れをつかんで、

カウンターで一発逆転、なんてシーンはあります。


「流れ」をつかめそうなときに、拙攻や拙守で自分に来かけた

流れを逸してしまうこともあります。

目には見えないのでわかりづらいこともあるのですが、

そういったところも意識しながらスポーツの試合を見てみるのも面白いですよ。
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