兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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正月のあいさつと、新年最初の「戦国人物紹介」をアップしたので、
普段の文章にしましょう。
世間との交わりを断ちたいといいますか、遁世願望を持っている私としては、
毎年の、年賀状を書くという行為は苦痛にも等しいのです(笑)
職場でも極力、人と交わりたくありませんし(社員ともお客さんとも)、
パソコンに向かって一人黙々と文章を書いていたいのです。
(それはもちろん、報告書にしろ稟議書にしろ、誰かに読まれることを前提としている文章ですが)
だから、プライベートで外に出て人と交わっているというのは大いなる例外であって、
矛盾です。
社会的な関係の中で生きざるを得ない人間としての、
本性に回帰する動きなのかもしれません。
ということで、毎年この時期にしか使わないプリンターを引っ張り出して来て
・・・年賀状を書こうと思ったら、高校の同級生との飲み会に遅刻していた・・・。
普段の文章にしましょう。
世間との交わりを断ちたいといいますか、遁世願望を持っている私としては、
毎年の、年賀状を書くという行為は苦痛にも等しいのです(笑)
職場でも極力、人と交わりたくありませんし(社員ともお客さんとも)、
パソコンに向かって一人黙々と文章を書いていたいのです。
(それはもちろん、報告書にしろ稟議書にしろ、誰かに読まれることを前提としている文章ですが)
だから、プライベートで外に出て人と交わっているというのは大いなる例外であって、
矛盾です。
社会的な関係の中で生きざるを得ない人間としての、
本性に回帰する動きなのかもしれません。
ということで、毎年この時期にしか使わないプリンターを引っ張り出して来て
・・・年賀状を書こうと思ったら、高校の同級生との飲み会に遅刻していた・・・。
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「戦国人物紹介」
036 陶晴賢 【すえはるかた】 1521-55(享年35) 前編
「晴賢」と名乗ったのは、1551年に主君の大内義隆を殺したあとに擁立した大内晴英(のちに義長と改名)から一字を拝領した時からである。それまでは「隆房」と名乗っていた。晴賢の方が知られているため、本稿では基本的に晴賢で通す。
五郎、中務大輔、従五位上尾張守。陶氏は大内氏の一族で、右田氏の分かれである。父は周防守護代陶興房、母は同族右田隆康の妹。陶弘護は応仁の乱の際に在国して大内教幸の反乱を鎮圧し、在京していた大内政弘を助けた。その子が興房で、北九州・中国地方で軍功があったが、和歌や連歌にも優れた人物で、公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩(宗祇の弟子)とも交流があった。
1539年、興房が死去すると、家督を継いだ晴賢は翌年からの吉田郡山城の戦いに参戦、大内軍を率いて尼子晴久の軍を破る。しかし、1542年の尼子領侵攻(月山富田城攻め)には失敗し、大内晴持(義隆の養嗣子)を失う。このため、義隆は政治に関心を示さなくなり、文化面に傾いていく。そんな中、文治派の相良武任と対立し、義隆との関係も悪化していく。軍事を放棄した義隆に武断派の晴賢はたびたび諫言を行うが、聞き入れられることはなかった。
1551年、晴賢は決起すると、山口を襲撃し、大寧寺で義隆を自害させる。ついで、大友氏から宗麟の弟であり、義隆の甥に当たる大友晴英(母が義隆の父義興の娘)を大内家の当主に迎えた。晴英は大内義長と名乗り、晴賢も初名の隆房から改名している。
そんな大内家の内紛をじっと見ていたのが安芸の毛利元就である。大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼が陶氏打倒を目指して挙兵する。これはいったん講和となるが、1555年、再び正頼が挙兵すると、これに呼応した元就は大内軍の隙を突いて安芸の大内方の城を落とし、安芸を支配下に収める。晴賢は自ら兵を率いて安芸厳島に侵攻するが、毛利軍の奇襲によって敗北し、自害した(厳島の戦い)。その後の大内氏は毛利氏の防長(周防・長門)攻略に遭い、抵抗するも敗れて、1557年、大内義長が自害。ここに名実ともに大内氏は滅亡した。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
文武に秀でた名将になる素養は秘めていたのだが、主君に恵まれず。
036 陶晴賢 【すえはるかた】 1521-55(享年35) 前編
「晴賢」と名乗ったのは、1551年に主君の大内義隆を殺したあとに擁立した大内晴英(のちに義長と改名)から一字を拝領した時からである。それまでは「隆房」と名乗っていた。晴賢の方が知られているため、本稿では基本的に晴賢で通す。
五郎、中務大輔、従五位上尾張守。陶氏は大内氏の一族で、右田氏の分かれである。父は周防守護代陶興房、母は同族右田隆康の妹。陶弘護は応仁の乱の際に在国して大内教幸の反乱を鎮圧し、在京していた大内政弘を助けた。その子が興房で、北九州・中国地方で軍功があったが、和歌や連歌にも優れた人物で、公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩(宗祇の弟子)とも交流があった。
1539年、興房が死去すると、家督を継いだ晴賢は翌年からの吉田郡山城の戦いに参戦、大内軍を率いて尼子晴久の軍を破る。しかし、1542年の尼子領侵攻(月山富田城攻め)には失敗し、大内晴持(義隆の養嗣子)を失う。このため、義隆は政治に関心を示さなくなり、文化面に傾いていく。そんな中、文治派の相良武任と対立し、義隆との関係も悪化していく。軍事を放棄した義隆に武断派の晴賢はたびたび諫言を行うが、聞き入れられることはなかった。
1551年、晴賢は決起すると、山口を襲撃し、大寧寺で義隆を自害させる。ついで、大友氏から宗麟の弟であり、義隆の甥に当たる大友晴英(母が義隆の父義興の娘)を大内家の当主に迎えた。晴英は大内義長と名乗り、晴賢も初名の隆房から改名している。
そんな大内家の内紛をじっと見ていたのが安芸の毛利元就である。大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼が陶氏打倒を目指して挙兵する。これはいったん講和となるが、1555年、再び正頼が挙兵すると、これに呼応した元就は大内軍の隙を突いて安芸の大内方の城を落とし、安芸を支配下に収める。晴賢は自ら兵を率いて安芸厳島に侵攻するが、毛利軍の奇襲によって敗北し、自害した(厳島の戦い)。その後の大内氏は毛利氏の防長(周防・長門)攻略に遭い、抵抗するも敗れて、1557年、大内義長が自害。ここに名実ともに大内氏は滅亡した。
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文武に秀でた名将になる素養は秘めていたのだが、主君に恵まれず。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
今年は良い年になりますように・・・。
今年もよろしくお願いいたします。
今年は良い年になりますように・・・。
一年間おつかれさまでした。
私の場合は、今週は月曜から金曜まで五日間働いて、
飲んで、昼過ぎに起きて、もう夕方になった土曜日、
あるいは四連休の初日を半分以上過ぎた、といったところです。
いつもと変わりません。朝起きられません。
今年は、大掃除は先ほどやり終えましたが、年賀状も書いていませんし、
いつの年にもまして年末年始という気がしません。
昨日が仕事納めでしたが、「今年も一年間お世話になりました」
「来年もよろしくお願いします」「よいお年を」
このフレーズがスムーズに出てきません。
と言っていても、2011年も終わって、新しい年を迎えるわけです。
今年を振り返ると、どこでも書かれていますが、
震災を初めとしていろいろなことがあった年でした。
仕事は上司や環境にも恵まれて、自分の力を発揮できた年だったと思います。
実際、高い評価をいただきました(これで来年昇進できるかどうかですが)
プライベートでもいろいろありましたし、記憶に残る一年になると思います。
つらいこともありましたが、その中で見つけた希望、
この縁を大事にして、来年もがんばっていきたいと思います。
それではみなさんもよいお年を。
私の場合は、今週は月曜から金曜まで五日間働いて、
飲んで、昼過ぎに起きて、もう夕方になった土曜日、
あるいは四連休の初日を半分以上過ぎた、といったところです。
いつもと変わりません。朝起きられません。
今年は、大掃除は先ほどやり終えましたが、年賀状も書いていませんし、
いつの年にもまして年末年始という気がしません。
昨日が仕事納めでしたが、「今年も一年間お世話になりました」
「来年もよろしくお願いします」「よいお年を」
このフレーズがスムーズに出てきません。
と言っていても、2011年も終わって、新しい年を迎えるわけです。
今年を振り返ると、どこでも書かれていますが、
震災を初めとしていろいろなことがあった年でした。
仕事は上司や環境にも恵まれて、自分の力を発揮できた年だったと思います。
実際、高い評価をいただきました(これで来年昇進できるかどうかですが)
プライベートでもいろいろありましたし、記憶に残る一年になると思います。
つらいこともありましたが、その中で見つけた希望、
この縁を大事にして、来年もがんばっていきたいと思います。
それではみなさんもよいお年を。
タイトルは「いってい」ではなく「いちじょう」と読みます。
「そうなると確かに決まっている」意の古語的表現(新明解国語辞典・第四版)
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死す、
死ぬと思って(必死の覚悟で)戦うと生きるし、生きようと思って戦うと死ぬものだ、
と上杉謙信は言ったそうですが、今日は生かす瞬間を見ましたね。
直前まで死にそうだったわけですが。
あと、テクニカルなことや交渉事はこちらの仕事。
私たちの仕事の中には判断することも含まれますから、
時に厳しい決断を迫られることもあります。
殺す権利も生かす義務もありませんが、
決めることが殺すことにつながることもあるわけですから
(物騒な言い方で申し訳ありません)、
しんどいですよね。
「そうなると確かに決まっている」意の古語的表現(新明解国語辞典・第四版)
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死す、
死ぬと思って(必死の覚悟で)戦うと生きるし、生きようと思って戦うと死ぬものだ、
と上杉謙信は言ったそうですが、今日は生かす瞬間を見ましたね。
直前まで死にそうだったわけですが。
あと、テクニカルなことや交渉事はこちらの仕事。
私たちの仕事の中には判断することも含まれますから、
時に厳しい決断を迫られることもあります。
殺す権利も生かす義務もありませんが、
決めることが殺すことにつながることもあるわけですから
(物騒な言い方で申し訳ありません)、
しんどいですよね。