兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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遅い時間ですが、電話にてオリエンテーションが終了しました。
支店のある札幌にはなかなか行けないので、助かります。
私の就業した時間を見計らって、お電話をいただきましたが、
人に合わせる仕事ですから、人が仕事をしていない時間や曜日に
仕事をしなければならないってことですよね(サービス業ならば当たり前のことですが)
アドバイザーさんに時間外手当は付くのでしょうか。
そこをいとわないのが仕事のやりがいというところなのでしょうが。
何事も好きじゃないと(好きにならないと、好きになれないと)続きませんよね。
さて、支店に行ったときにデータを見せてもらったのですが、
出会いまでの平均的な期間は1か月前後とのこと。
2か月活動すれば10名以上の方の紹介を受けますから、
いいと思える方が何人かは出てくるはずです。
そして、(結婚までの)お付き合いの期間は半年程度。
婚活して出会ったのですから、長くてもどうかと思いますが、
婚活で出会ったとはいえ、ある程度の期間が必要ということも確かなようです。
まあ、平均はあくまで平均であって、個人が平均に収束するわけではありません。
いまのところ、文字だけの情報を見ながら(写真で探すこともできないわけではない)
あれこれ考えていますが、
アドバイザーさんの頭の中では、あの人と私が合うんじゃないか、
この人も合いそうだ、などとマッチングさせているようで、
コンピューターのシステムに頼るように見えて、
最後は人の力で出会うのではないかと思ったりして。
支店のある札幌にはなかなか行けないので、助かります。
私の就業した時間を見計らって、お電話をいただきましたが、
人に合わせる仕事ですから、人が仕事をしていない時間や曜日に
仕事をしなければならないってことですよね(サービス業ならば当たり前のことですが)
アドバイザーさんに時間外手当は付くのでしょうか。
そこをいとわないのが仕事のやりがいというところなのでしょうが。
何事も好きじゃないと(好きにならないと、好きになれないと)続きませんよね。
さて、支店に行ったときにデータを見せてもらったのですが、
出会いまでの平均的な期間は1か月前後とのこと。
2か月活動すれば10名以上の方の紹介を受けますから、
いいと思える方が何人かは出てくるはずです。
そして、(結婚までの)お付き合いの期間は半年程度。
婚活して出会ったのですから、長くてもどうかと思いますが、
婚活で出会ったとはいえ、ある程度の期間が必要ということも確かなようです。
まあ、平均はあくまで平均であって、個人が平均に収束するわけではありません。
いまのところ、文字だけの情報を見ながら(写真で探すこともできないわけではない)
あれこれ考えていますが、
アドバイザーさんの頭の中では、あの人と私が合うんじゃないか、
この人も合いそうだ、などとマッチングさせているようで、
コンピューターのシステムに頼るように見えて、
最後は人の力で出会うのではないかと思ったりして。
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今年に入ってから、「仕事のぼやき」と「婚活」のカテゴリーを増やしまして、ブログにも活気が出てきたかなと思っております。みなさまのおかげです。ありがとうございます。歴史の記事にもどんどんコメントしていいんだからね!(笑)
ツイッターで書いてみた、上杉景勝・毛利輝元の、関ヶ原で負けた二人の比較をやっていたら面白くなってしまって、ついでに関ヶ原の戦いの政治的な意義についての下書きまでできてしまって、歴史って楽しい、といまさらながらに思った次第です。
以下はツイッターからの転載(一部改編)
関ヶ原の戦いで大きく領地を減らしたのが上杉景勝と毛利輝元だが、どちらの評価が高いかというと、多くの人が上杉景勝と答えるだろう。かたや、関東に義を唱えた上杉謙信の、かたや中国に覇を唱えた毛利元就の、それぞれ後継者である。最終的にはどちらも三十万石程度の大名に収まった。
それぞれの性格や置かれた環境、補佐する人物の存在など、様々な要素が考えられるが、景勝は義を貫いて家名を守ったと賞賛されるし、輝元は元就の代からの領地を一代で失ったと非難されることが多いだろう。潔さと不甲斐なさ(人の良さ)、それぞれの取った行動がどのような印象を与えるかも評価に影響するだろう。
…続きを書きたくて仕方がないのですが、これ以上は下調べが必要になりますので、あらためて。最初から文献を片手に、調べながら書いていくのもいいのですが、何も見ずに(そらで)ダダダーっと大まかな文章だけ作ってしまって、そこに肉を付けていくというか、調べながら付け足していくというのもまた楽しいことでして。「戦国人物紹介」はだいたいこの二通りの書き方で構成されています。この人物についてこれは書かなくちゃ、とインスピレーションが湧く場合が多いのですが、この人物は紹介しなければいけない重要な人物だけれど、何を書いたらいいものか、と悩むことも少なくありません。逆に、小早川隆景みたいに、どこから書いても楽しいって人も中にはいますけどね。その楽しさを伝えきれない私の文章の拙さが残念ではあります。
話を戻すと、毛利輝元は北条氏政あたりと比べても面白いんじゃないでしょうか。北条氏の出自は、いまは中央の伊勢氏の流れをくむ名門となっていますが、関東に出てからは「北条」を称したことからしても成り上がりですしね。毛利氏ももとは安芸の国人領主の一つに過ぎませんでした(ほかにも似たような領主がたくさんいた)
有能な当主が出ても、次も有能かどうかってのはわからない。北条氏は名君と言えるような当主が三代続きましたが、これはこの時代に限らず非常に珍しいことです。徳川将軍家だって、三代目はアレだしねw
武田信玄も偉大な人物ですが、彼の時代に(それ以前からのものもある)内包した矛盾が次の代で噴き出すのですから、この部分は割り引いて評価しなければなりません。
ツイッターで書いてみた、上杉景勝・毛利輝元の、関ヶ原で負けた二人の比較をやっていたら面白くなってしまって、ついでに関ヶ原の戦いの政治的な意義についての下書きまでできてしまって、歴史って楽しい、といまさらながらに思った次第です。
以下はツイッターからの転載(一部改編)
関ヶ原の戦いで大きく領地を減らしたのが上杉景勝と毛利輝元だが、どちらの評価が高いかというと、多くの人が上杉景勝と答えるだろう。かたや、関東に義を唱えた上杉謙信の、かたや中国に覇を唱えた毛利元就の、それぞれ後継者である。最終的にはどちらも三十万石程度の大名に収まった。
それぞれの性格や置かれた環境、補佐する人物の存在など、様々な要素が考えられるが、景勝は義を貫いて家名を守ったと賞賛されるし、輝元は元就の代からの領地を一代で失ったと非難されることが多いだろう。潔さと不甲斐なさ(人の良さ)、それぞれの取った行動がどのような印象を与えるかも評価に影響するだろう。
…続きを書きたくて仕方がないのですが、これ以上は下調べが必要になりますので、あらためて。最初から文献を片手に、調べながら書いていくのもいいのですが、何も見ずに(そらで)ダダダーっと大まかな文章だけ作ってしまって、そこに肉を付けていくというか、調べながら付け足していくというのもまた楽しいことでして。「戦国人物紹介」はだいたいこの二通りの書き方で構成されています。この人物についてこれは書かなくちゃ、とインスピレーションが湧く場合が多いのですが、この人物は紹介しなければいけない重要な人物だけれど、何を書いたらいいものか、と悩むことも少なくありません。逆に、小早川隆景みたいに、どこから書いても楽しいって人も中にはいますけどね。その楽しさを伝えきれない私の文章の拙さが残念ではあります。
話を戻すと、毛利輝元は北条氏政あたりと比べても面白いんじゃないでしょうか。北条氏の出自は、いまは中央の伊勢氏の流れをくむ名門となっていますが、関東に出てからは「北条」を称したことからしても成り上がりですしね。毛利氏ももとは安芸の国人領主の一つに過ぎませんでした(ほかにも似たような領主がたくさんいた)
有能な当主が出ても、次も有能かどうかってのはわからない。北条氏は名君と言えるような当主が三代続きましたが、これはこの時代に限らず非常に珍しいことです。徳川将軍家だって、三代目はアレだしねw
武田信玄も偉大な人物ですが、彼の時代に(それ以前からのものもある)内包した矛盾が次の代で噴き出すのですから、この部分は割り引いて評価しなければなりません。
「戦国人物紹介」
武人としての器用ならざる生き方
040 吉川元春 【きっかわもとはる】 1530-86
少輔次郎。治部少輔、従四位下、駿河守。
武では自分もかなわない、と元就に言わしめた勇将だが、文に暗かったわけではない。尼子氏の月山富田城を囲む陣中で『太平記』四十巻を書写したことで知られている(「吉川本太平記」と呼ばれる)
元春が養子として入った吉川氏は藤原南家の流れを組み、駿河入江庄吉川邑に住んで吉川を氏とした。子孫は播磨や土佐、安芸に広がる。吉川国経の娘(妙玖)が毛利元就の正室となり、国経の長男元経が元就の姉を娶ったことから、毛利氏とは重縁関係となった。吉川氏が大内方から尼子方に転じると、元経は元就を尼子方に誘うが果たせぬまま死去。跡を継いだ興経は1540年、尼子氏がおこなった毛利氏の吉田郡山城攻めに参加。その後、大内氏と尼子氏の間を転々し去就が定まらなかった。そうしているうちに家臣が毛利方へ離反し、興経は元就の二男元春を養子に迎えて隠居せざるを得なくなったが、1550年、実子とともに元就に殺されたため、吉川氏の正統は途絶えることになる。石見吉川氏の末裔である経家は秀吉に鳥取城で兵糧攻めに遭ったことで知られる(1581年、城兵の助命と引き換えに自刃)
「元春」の名は元就の先祖である毛利元春と同じ名である。先祖と同じ名前を付ける例は伊達政宗などいくつかあるが、元就が元春への期待を込めて付けた名であろう。「元」の字は兄隆元から一字を賜ったとも言われる。
1547年、熊谷信直の娘をめとっているが、この女性(新庄局)は二人といない醜女(しこめ)として知られていた。それを聞いた元就が元春の考えを質したところ、元春は笑って言った。「信直は熊谷次郎直実(源平合戦の一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことで知られる。幸若舞の「敦盛」は信長が好んだ「人間五十年~」の一節で有名)の子孫で代々勇猛な家であり、信直を味方とできれば心強い。娘の容姿を問わず嫁に迎えたとあれば、信直も自分の志に感じてくれよう。信直と馬の轡を並べて毛利家の先陣を進みたいのだ」と。この言葉を伝え聞いたのか、信直は元春のために身命を投げ打って尽くしたという。新庄局が醜女という記録は後世になって現れるものであり、事実かどうかは疑わしいところだが、元春の質実な考え方を表す逸話である。
弟隆景がおもに山陽で水軍を率いたのに対し、両川(吉川・小早川)の一方である元春は山陰で兵を率いた。1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破ると、そののちは石見に進出して尼子晴久と戦った。1565年からは尼子氏の本拠である月山富田城を包囲し、翌年には尼子義久を降伏させている。1571年に父元就が死去すると、隆景とともに甥の輝元を補佐する。以後は尼子遺臣が頼った織田信長との戦いが本格化する。尼子遺臣は滅ぼしたものの、信長との戦いは一進一退を繰り返し、次第に劣勢になる。1582年には清水宗治のこもる備中高松城を水攻めにされる。
この毛利家の危機を救ったのが本能寺の変である。信長の死を知らないまま和議を結んだ毛利家だったが、信長の死を知って、元春は秀吉を追撃すべきと主張、隆景は和議を守るべきだとして、両川の意見は食い違う。結局、秀吉への追撃は行われず、毛利家は兵を引いた。以後、元春は家督を嫡男の元長に譲って隠居してしまう。隆景は四国攻めに参加するなど秀吉への協力を惜しまなかったが、元春は秀吉への協力を拒み続けた。
1586年、秀吉の強い要請と、隆景、輝元の説得により九州攻めに従軍。小倉城を落とすが、そこで瘡(できもの)を患い患部が悪化して死去した。黒田官兵衛から鮭の料理を勧められ、鮭は「血を破る」のでできものに悪いと知りながら、断るのも失礼であるとして食べたためにできものが悪化して死に至ったとも言われる。元春の律儀な性格を表す逸話である。
元春の死の翌年、長男元長が九州攻めの途上で病死。二男元氏は他家を継いでいたため、三男の広家が家督を継いだ。関ヶ原の戦いにおいて毛利家の存続に苦心するのが広家である。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
この時代、できもの(皮膚病、あるいはおでき)で死に至るというのはたまに聞く話で、家康もできものが悪化して膿を吸い出させたことがある。黒田官兵衛が毒殺したなどというのはあらぬ嫌疑である。
武人としての器用ならざる生き方
040 吉川元春 【きっかわもとはる】 1530-86
少輔次郎。治部少輔、従四位下、駿河守。
武では自分もかなわない、と元就に言わしめた勇将だが、文に暗かったわけではない。尼子氏の月山富田城を囲む陣中で『太平記』四十巻を書写したことで知られている(「吉川本太平記」と呼ばれる)
元春が養子として入った吉川氏は藤原南家の流れを組み、駿河入江庄吉川邑に住んで吉川を氏とした。子孫は播磨や土佐、安芸に広がる。吉川国経の娘(妙玖)が毛利元就の正室となり、国経の長男元経が元就の姉を娶ったことから、毛利氏とは重縁関係となった。吉川氏が大内方から尼子方に転じると、元経は元就を尼子方に誘うが果たせぬまま死去。跡を継いだ興経は1540年、尼子氏がおこなった毛利氏の吉田郡山城攻めに参加。その後、大内氏と尼子氏の間を転々し去就が定まらなかった。そうしているうちに家臣が毛利方へ離反し、興経は元就の二男元春を養子に迎えて隠居せざるを得なくなったが、1550年、実子とともに元就に殺されたため、吉川氏の正統は途絶えることになる。石見吉川氏の末裔である経家は秀吉に鳥取城で兵糧攻めに遭ったことで知られる(1581年、城兵の助命と引き換えに自刃)
「元春」の名は元就の先祖である毛利元春と同じ名である。先祖と同じ名前を付ける例は伊達政宗などいくつかあるが、元就が元春への期待を込めて付けた名であろう。「元」の字は兄隆元から一字を賜ったとも言われる。
1547年、熊谷信直の娘をめとっているが、この女性(新庄局)は二人といない醜女(しこめ)として知られていた。それを聞いた元就が元春の考えを質したところ、元春は笑って言った。「信直は熊谷次郎直実(源平合戦の一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことで知られる。幸若舞の「敦盛」は信長が好んだ「人間五十年~」の一節で有名)の子孫で代々勇猛な家であり、信直を味方とできれば心強い。娘の容姿を問わず嫁に迎えたとあれば、信直も自分の志に感じてくれよう。信直と馬の轡を並べて毛利家の先陣を進みたいのだ」と。この言葉を伝え聞いたのか、信直は元春のために身命を投げ打って尽くしたという。新庄局が醜女という記録は後世になって現れるものであり、事実かどうかは疑わしいところだが、元春の質実な考え方を表す逸話である。
弟隆景がおもに山陽で水軍を率いたのに対し、両川(吉川・小早川)の一方である元春は山陰で兵を率いた。1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破ると、そののちは石見に進出して尼子晴久と戦った。1565年からは尼子氏の本拠である月山富田城を包囲し、翌年には尼子義久を降伏させている。1571年に父元就が死去すると、隆景とともに甥の輝元を補佐する。以後は尼子遺臣が頼った織田信長との戦いが本格化する。尼子遺臣は滅ぼしたものの、信長との戦いは一進一退を繰り返し、次第に劣勢になる。1582年には清水宗治のこもる備中高松城を水攻めにされる。
この毛利家の危機を救ったのが本能寺の変である。信長の死を知らないまま和議を結んだ毛利家だったが、信長の死を知って、元春は秀吉を追撃すべきと主張、隆景は和議を守るべきだとして、両川の意見は食い違う。結局、秀吉への追撃は行われず、毛利家は兵を引いた。以後、元春は家督を嫡男の元長に譲って隠居してしまう。隆景は四国攻めに参加するなど秀吉への協力を惜しまなかったが、元春は秀吉への協力を拒み続けた。
1586年、秀吉の強い要請と、隆景、輝元の説得により九州攻めに従軍。小倉城を落とすが、そこで瘡(できもの)を患い患部が悪化して死去した。黒田官兵衛から鮭の料理を勧められ、鮭は「血を破る」のでできものに悪いと知りながら、断るのも失礼であるとして食べたためにできものが悪化して死に至ったとも言われる。元春の律儀な性格を表す逸話である。
元春の死の翌年、長男元長が九州攻めの途上で病死。二男元氏は他家を継いでいたため、三男の広家が家督を継いだ。関ヶ原の戦いにおいて毛利家の存続に苦心するのが広家である。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
この時代、できもの(皮膚病、あるいはおでき)で死に至るというのはたまに聞く話で、家康もできものが悪化して膿を吸い出させたことがある。黒田官兵衛が毒殺したなどというのはあらぬ嫌疑である。
今日も店長の怒声が響き渡る。
もしかしたら、頭のもやもやの原因はこれじゃないかとね。
私と私の課長は圏外にいますが、
いつか来るかもという緊張感はありますから、
それがストレス、プレッシャーになって、脳が委縮しているのかもしれません。
脳って縮むんですよ(測ってもらったことがある)
「自分はほめられて伸びるタイプです(だからほめてください)」
なんて言葉は自分で言っていい言葉ではありません。
周りが見ていて、「こいつはほめると伸びるタイプだな」とわかるのが、
ほめて伸びるタイプで、自分で言う人はそもそもほめられるようなところがありません。
厳しいようですけど。
まずは言われたことをできるようになりなさい、と。
それから約束や期限、時間は守ること。
内部の約束も守れない人は、お客様との約束も守れません。
いくら言っても成長しないので、店長もお疲れだとは思いますが、
怒る→できない→また怒られる→できない
の悪循環になっていて、それはそもそも能力が不足しているのか、
能力があっても時間の使い方がまずいのか、よくわかりませんが、
店全体の雰囲気が非常に悪くなっているので、
(自分が怒られているわけではなくても)その場にいる身としてはかなりしんどいです。
まあ、怒られる方も怒られる方で、
よく毎回、店長から突っ込まれそうな話をするなと。
普通なら、次は怒られないように改めようと思うはずですが。
矯正しようとしても、根本からある部分はそうそう変わりませんから、
この状態がずっと続くのかもしれません。
怒られる方も慣れてしまっているのか、やる気がないのかわかりませんが、
(怒られるのが常態化しているせいで)私や私の課長が言うこともやってくれないので、
管理する方としては困ります。いっそのこと、自分でやった方が早い(笑)
もしかしたら、頭のもやもやの原因はこれじゃないかとね。
私と私の課長は圏外にいますが、
いつか来るかもという緊張感はありますから、
それがストレス、プレッシャーになって、脳が委縮しているのかもしれません。
脳って縮むんですよ(測ってもらったことがある)
「自分はほめられて伸びるタイプです(だからほめてください)」
なんて言葉は自分で言っていい言葉ではありません。
周りが見ていて、「こいつはほめると伸びるタイプだな」とわかるのが、
ほめて伸びるタイプで、自分で言う人はそもそもほめられるようなところがありません。
厳しいようですけど。
まずは言われたことをできるようになりなさい、と。
それから約束や期限、時間は守ること。
内部の約束も守れない人は、お客様との約束も守れません。
いくら言っても成長しないので、店長もお疲れだとは思いますが、
怒る→できない→また怒られる→できない
の悪循環になっていて、それはそもそも能力が不足しているのか、
能力があっても時間の使い方がまずいのか、よくわかりませんが、
店全体の雰囲気が非常に悪くなっているので、
(自分が怒られているわけではなくても)その場にいる身としてはかなりしんどいです。
まあ、怒られる方も怒られる方で、
よく毎回、店長から突っ込まれそうな話をするなと。
普通なら、次は怒られないように改めようと思うはずですが。
矯正しようとしても、根本からある部分はそうそう変わりませんから、
この状態がずっと続くのかもしれません。
怒られる方も慣れてしまっているのか、やる気がないのかわかりませんが、
(怒られるのが常態化しているせいで)私や私の課長が言うこともやってくれないので、
管理する方としては困ります。いっそのこと、自分でやった方が早い(笑)
世の中にはいろんな資格があるんだなあ。
私は普通自動車の運転免許くらいですが。
(職業上、持っている資格はいくつかありますが、
公的な資格ではなく、あくまで業界内部のもの)
紹介書はこんな感じです、と紹介したかったのですが、
企業秘密でしょうから、ボツ原稿にしました・・・。
今回たまたまでしょうけど、医療系のお相手紹介が多かったですね。
(福祉関係と同じカテゴリーなので、人数は多いがその中の医療系が多かった)
奥さんが「師」とか「士」のついている医療関係従事者だと、
ここが痛いとか、あそこが痛いとか、という時に的確なアドバイスがもらえるとか
ある? ない?
病院はきらいですが、サプリとかも含めて薬の類は大好きです。
会誌にも目を通したいのですが、今日は寝ます!
趣味・特技の欄に登録を追加しました。
男の人で趣味・特技に「料理」があるってのはどうなんでしょうかね。
私は普通自動車の運転免許くらいですが。
(職業上、持っている資格はいくつかありますが、
公的な資格ではなく、あくまで業界内部のもの)
紹介書はこんな感じです、と紹介したかったのですが、
企業秘密でしょうから、ボツ原稿にしました・・・。
今回たまたまでしょうけど、医療系のお相手紹介が多かったですね。
(福祉関係と同じカテゴリーなので、人数は多いがその中の医療系が多かった)
奥さんが「師」とか「士」のついている医療関係従事者だと、
ここが痛いとか、あそこが痛いとか、という時に的確なアドバイスがもらえるとか
ある? ない?
病院はきらいですが、サプリとかも含めて薬の類は大好きです。
会誌にも目を通したいのですが、今日は寝ます!
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男の人で趣味・特技に「料理」があるってのはどうなんでしょうかね。