兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■武田信玄1
武田二十四将の紹介はまだまだ続きますが、武田家の人物紹介も中盤というところ、ここで御屋形様に登場いただきましょう。
実はこの人に対する私の評価は世間での評価ほど高くはない。それでも一般の戦国大名よりははるかに高いのだが、信長を上回ることはない。
010 武田信玄 【たけだしんげん】 1521-73
(概説)
俗名は晴信。昔の某ゲームでは「戦国最強軍団総帥」などとされていたが、買い被られすぎである。ただ、人真似(猿真似?)はうまく、その点では器用だったと言えよう。信濃の盆地に点々とする豪族を一つ一つ潰していった先が越後の上杉謙信。まだゲームの途中なのにいきなりババを引いたようなものである。しかもお互いを最大の好敵手と見たのが運の尽き。本人たちが決勝戦をしていると思った隙に信長はシードで天下に上ってしまった。それなら自分も、と上洛を目指す。芸術的と言えるほど完成された軍事手腕によって徳川家康を叩き潰すも、病により野望は遂げられず。疑り深い性格で、後世には父親の追放と子殺しをしたという悪名を、勝頼には自分以外には服従しない家臣を残した。だが、武田遺臣を多く召し抱えた徳川家が後に天下を取ったので、信玄自身が悪く書かれることは少ない。
さて、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」というのが信玄の歌として伝えられている。たしかに信玄の本拠地は甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館であり、城(といっても当時の城は天守閣や石垣があったわけではない)は持たなかったように思われているが、万一の時の「詰めの城」として、要害山城という城があった。信玄の父、信虎が今川氏の侵攻に遭った際に、正室大井の方をこの城に避難させた。そのときに生まれたのが信玄である。幼名は太郎(または勝千代)、元服して晴信と名乗る。「晴」の字は将軍足利義晴から一字を賜ったものとされる(ただし、以後「信玄」で通す)
初陣は元服直後の1536年、十五歳のときの信濃佐久郡海ノ口(うんのくち)城攻めと言われる。父信虎はこの城を落とせず、殿軍(退却時に最後尾にあって敵の追撃を防ぐ部隊)を務めた信玄が、武田軍の退却に油断していた敵の隙をついて夜のうちに城内に攻め入り、家臣の教来石(きょうらいし)民部(のちの馬場信房)が城主平賀源心(玄信、一説に江戸時代の発明家平賀源内の先祖とも)の首を挙げたという。信虎は奇策を弄した勝利を喜ばなかったというが、そもそもあまりにできすぎた初陣話に疑問を呈す見方も多い。
1541年、信虎をクーデターによって追放すると、武田家の家督を継承する。
■武田信玄1
武田二十四将の紹介はまだまだ続きますが、武田家の人物紹介も中盤というところ、ここで御屋形様に登場いただきましょう。
実はこの人に対する私の評価は世間での評価ほど高くはない。それでも一般の戦国大名よりははるかに高いのだが、信長を上回ることはない。
010 武田信玄 【たけだしんげん】 1521-73
(概説)
俗名は晴信。昔の某ゲームでは「戦国最強軍団総帥」などとされていたが、買い被られすぎである。ただ、人真似(猿真似?)はうまく、その点では器用だったと言えよう。信濃の盆地に点々とする豪族を一つ一つ潰していった先が越後の上杉謙信。まだゲームの途中なのにいきなりババを引いたようなものである。しかもお互いを最大の好敵手と見たのが運の尽き。本人たちが決勝戦をしていると思った隙に信長はシードで天下に上ってしまった。それなら自分も、と上洛を目指す。芸術的と言えるほど完成された軍事手腕によって徳川家康を叩き潰すも、病により野望は遂げられず。疑り深い性格で、後世には父親の追放と子殺しをしたという悪名を、勝頼には自分以外には服従しない家臣を残した。だが、武田遺臣を多く召し抱えた徳川家が後に天下を取ったので、信玄自身が悪く書かれることは少ない。
さて、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」というのが信玄の歌として伝えられている。たしかに信玄の本拠地は甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館であり、城(といっても当時の城は天守閣や石垣があったわけではない)は持たなかったように思われているが、万一の時の「詰めの城」として、要害山城という城があった。信玄の父、信虎が今川氏の侵攻に遭った際に、正室大井の方をこの城に避難させた。そのときに生まれたのが信玄である。幼名は太郎(または勝千代)、元服して晴信と名乗る。「晴」の字は将軍足利義晴から一字を賜ったものとされる(ただし、以後「信玄」で通す)
初陣は元服直後の1536年、十五歳のときの信濃佐久郡海ノ口(うんのくち)城攻めと言われる。父信虎はこの城を落とせず、殿軍(退却時に最後尾にあって敵の追撃を防ぐ部隊)を務めた信玄が、武田軍の退却に油断していた敵の隙をついて夜のうちに城内に攻め入り、家臣の教来石(きょうらいし)民部(のちの馬場信房)が城主平賀源心(玄信、一説に江戸時代の発明家平賀源内の先祖とも)の首を挙げたという。信虎は奇策を弄した勝利を喜ばなかったというが、そもそもあまりにできすぎた初陣話に疑問を呈す見方も多い。
1541年、信虎をクーデターによって追放すると、武田家の家督を継承する。
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