兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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夏休み・よい子の武田家祭り!
どんどん行きましょう。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将3
四天王、四名臣とも呼ばれる名将たち。信玄の死後も武田家を支え続けますが、高坂以外は長篠の戦いで戦死します。
・山県昌景 【やまがたまさかげ】 1529-75
三郎兵衛尉。初め飯富(おぶ)源四郎。飯富虎昌の弟(甥とも)。小柄で風采は上がらなかったという。信玄の近習、使番として徐々に活躍し、譜代家老衆三百騎持ちの大将となる。
1565年、信玄の嫡男義信と兄虎昌が謀反を企てると、昌景は信玄に報告、このため義信、虎昌は自害させられる。昌景はこの功により虎昌の赤備えを引き継ぐとともに、信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられる。
以後は各地の戦いに参加して、武田家最強と恐れられ、1572年の三方ヶ原の戦いでも家康の本陣を壊滅させている。1569年には駿河江尻城代に任じられるなど、内政・軍政両面で重きをなし、原昌胤とともに家中最高の「職」を務める。信玄が死ぬ際には「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺言されたという。
1575年の長篠の戦いでは敵陣に突撃し、銃弾を浴びるも馬から落ちず、采配を口にくわえたままの壮絶な戦死を遂げる。
長男昌次も戦死、二男昌光も武田家滅亡時に殺される。他の子孫は各地の大名に仕えて江戸時代も生き残っており、明和事件で死罪となった山県大弐も昌景の子孫を称している。

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赤備えにヒゲといえば・・・。
・内藤昌豊 【ないとうまさとよ】 1522-75
修理亮(しゅりのすけ)。もと工藤源左衛門。父が信虎に誅殺されたために、諸国を流浪する。1546年、信玄に呼び戻されて工藤氏の家督を継ぎ、五十騎持ちの侍大将とされた。
1561年の川中島の戦いでは妻女山の別働隊に属す。その後は西上野での戦いに参加し、上野箕輪城代となる。1568年、信虎の代に断絶していた内藤氏の名跡を継ぐことを許され、内藤修理亮昌豊と改める。1569年の北条氏との三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて武田軍の補給面を支える。本人はこの地味な役に不満だったが、信玄は「重要な役で自分がやりたいほどだ」と言って納得させたという。
1572年の三方ヶ原の戦いにも参加、1575年の長篠の戦いで戦死する。
信玄の代表的な戦いにはすべて参加し、常に武功があったが、信玄からは一度も感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)をもらうことがなかった。これについて信玄は「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし(当たり前)」とし、昌豊も「合戦は大将の采配に従って勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことだ」と語ったという。
子昌月(槍弾正・保科正俊の三男とも)が継いだが、武田家滅亡後は織田氏を経て北条氏に仕えた。

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貿易船の船長みたいだ・・・。迅速行軍のスキルはほかの武将につけても役立ちます。
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三郎兵衛尉。初め飯富(おぶ)源四郎。飯富虎昌の弟(甥とも)。小柄で風采は上がらなかったという。信玄の近習、使番として徐々に活躍し、譜代家老衆三百騎持ちの大将となる。
1565年、信玄の嫡男義信と兄虎昌が謀反を企てると、昌景は信玄に報告、このため義信、虎昌は自害させられる。昌景はこの功により虎昌の赤備えを引き継ぐとともに、信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられる。
以後は各地の戦いに参加して、武田家最強と恐れられ、1572年の三方ヶ原の戦いでも家康の本陣を壊滅させている。1569年には駿河江尻城代に任じられるなど、内政・軍政両面で重きをなし、原昌胤とともに家中最高の「職」を務める。信玄が死ぬ際には「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺言されたという。
1575年の長篠の戦いでは敵陣に突撃し、銃弾を浴びるも馬から落ちず、采配を口にくわえたままの壮絶な戦死を遂げる。
長男昌次も戦死、二男昌光も武田家滅亡時に殺される。他の子孫は各地の大名に仕えて江戸時代も生き残っており、明和事件で死罪となった山県大弐も昌景の子孫を称している。
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・内藤昌豊 【ないとうまさとよ】 1522-75
修理亮(しゅりのすけ)。もと工藤源左衛門。父が信虎に誅殺されたために、諸国を流浪する。1546年、信玄に呼び戻されて工藤氏の家督を継ぎ、五十騎持ちの侍大将とされた。
1561年の川中島の戦いでは妻女山の別働隊に属す。その後は西上野での戦いに参加し、上野箕輪城代となる。1568年、信虎の代に断絶していた内藤氏の名跡を継ぐことを許され、内藤修理亮昌豊と改める。1569年の北条氏との三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて武田軍の補給面を支える。本人はこの地味な役に不満だったが、信玄は「重要な役で自分がやりたいほどだ」と言って納得させたという。
1572年の三方ヶ原の戦いにも参加、1575年の長篠の戦いで戦死する。
信玄の代表的な戦いにはすべて参加し、常に武功があったが、信玄からは一度も感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)をもらうことがなかった。これについて信玄は「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし(当たり前)」とし、昌豊も「合戦は大将の采配に従って勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことだ」と語ったという。
子昌月(槍弾正・保科正俊の三男とも)が継いだが、武田家滅亡後は織田氏を経て北条氏に仕えた。
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