兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将2
■武田二十四将2
武田義信は二十四将に含みません。後継者となった勝頼(二十四将に含まないこともある)と並べると違和感があるからでしょうか。
・武田義信 【たけだよしのぶ】 1538-67
太郎。武田信玄の嫡男。母は三条氏。一般に1552年に駿河の今川義元の娘を妻に迎えたとされる。甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟が結ばれたときとすれば1554年となる。1553年に元服。義信の「義」は将軍足利義輝から一字を賜ったという。
1554年に十七歳で初陣。信玄の後継者として順調な出発だったが、1560年に岳父(妻の父)今川義元が桶狭間で敗死すると、運命が狂いだす。
1561年の川中島で信玄と意見が対立し、以後不和になったという。1565年に謀反の嫌疑で傅役(もりやく)の飯富虎昌とともに捕らえられて、二年後に死去。自害したとも病死したともいわれる。この対立は単なる父子の対立に留まらず、武田家中で今川(駿河)攻めを進めようとする派と親今川派の二つに分かれての抗争を招いた。
親今川派を粛清することで家中の意見統一を図った信玄だが、嫡男という後継者を失った代償は高くついた。
・一条信龍 【いちじょうのぶたつ】 1539?-82
信竜。右衛門大夫。信虎の八男で信玄の異母弟。生年を1539年とすると、甥の義信よりも後に生まれたことになる。武田家初代信義の二男、一条忠頼に始まる一条家を継ぐ。一門として本陣を守備したことが多かったのか、あまり武功は伝わらないが、1575年の長篠の戦いに参加、重臣多数が戦死する中、生還している。
武田滅亡時は甲斐上野城を守備するが戦死。一説に、織田信忠(信長の嫡子)の軍が甲斐に攻め入ると残党狩りがあり、捕らえられて殺されたともいう。
・武田義信 【たけだよしのぶ】 1538-67
太郎。武田信玄の嫡男。母は三条氏。一般に1552年に駿河の今川義元の娘を妻に迎えたとされる。甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟が結ばれたときとすれば1554年となる。1553年に元服。義信の「義」は将軍足利義輝から一字を賜ったという。
1554年に十七歳で初陣。信玄の後継者として順調な出発だったが、1560年に岳父(妻の父)今川義元が桶狭間で敗死すると、運命が狂いだす。
1561年の川中島で信玄と意見が対立し、以後不和になったという。1565年に謀反の嫌疑で傅役(もりやく)の飯富虎昌とともに捕らえられて、二年後に死去。自害したとも病死したともいわれる。この対立は単なる父子の対立に留まらず、武田家中で今川(駿河)攻めを進めようとする派と親今川派の二つに分かれての抗争を招いた。
親今川派を粛清することで家中の意見統一を図った信玄だが、嫡男という後継者を失った代償は高くついた。
・一条信龍 【いちじょうのぶたつ】 1539?-82
信竜。右衛門大夫。信虎の八男で信玄の異母弟。生年を1539年とすると、甥の義信よりも後に生まれたことになる。武田家初代信義の二男、一条忠頼に始まる一条家を継ぐ。一門として本陣を守備したことが多かったのか、あまり武功は伝わらないが、1575年の長篠の戦いに参加、重臣多数が戦死する中、生還している。
武田滅亡時は甲斐上野城を守備するが戦死。一説に、織田信忠(信長の嫡子)の軍が甲斐に攻め入ると残党狩りがあり、捕らえられて殺されたともいう。
PR
この記事にコメントする