兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
意外と評価しています、武田信虎。上杉謙信における長尾為景や信長における信秀など、英雄と呼ばれる人物の陰には基礎を固めた父親の存在がありました。
「戦国人物紹介」
009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (後編)
「暴君」として名高いのですが、内藤、馬場、山県ら家臣を手討ちにしたというのは家臣統制のために必要なことですし(信長の例を見るまでもない。ちなみにそれぞれの家は信玄の代に復興している)、妊婦の腹を生きたまま裂いたというのは中国の暴君伝説の引用でしょう。新たに政権を掌握した側が、旧政権の人間を悪人とするのはいまも昔も変わりません。ただ、信虎が追放されて甲斐の領民は喜んだという記録がありますから、もうからない戦争を繰り返して家臣や領民のひんしゅくを買っていたことはうかがえます。
信虎追放のクーデターの理由については諸説あります。信虎が晴信(信玄)を差し置いて、二男信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたため晴信派が起こしたという説。しかし、これはクーデター後に信繁が排斥されず、晴信の代に重用されたことからもやや考えづらいところがあります。
また、度重なる戦いで武田家臣、領民らに負担がかかったため、不満を募らせた家臣団が晴信を擁立したという見方もあります。たしかに、このクーデターでは板垣信方や甘利虎泰といった一派が晴信を擁立する形で動いています。晴信が主導するというよりもむしろ、家臣団の主導で起こったクーデターは、その後の晴信の行動にも少なからず制約を与え、彼ら家臣団の意向というものは、晴信と嫡男義信との間に駿河をめぐる外交路線の対立が起こった際にも再び登場してきます。
信玄や謙信といえども、家臣の生殺与奪を握るまでの絶対的な権力を握ることはできませんでした。領地と兵を持った家臣(在地領主、国人)の意向は無視できません。実際、家臣の統制に乗り出した信虎は追放されました。謙信も家臣の統率には苦労し、嫌気がさした謙信は出家すると言って出奔する騒動まで起こしています(計画的行動とも言われるが、本当に嫌気がさしたという説も有力)
信玄は侵略戦争を起こし、それに勝利し続けることで家臣の目を外に向けさせ、家臣の掌握に成功しました。しかし、本質的には融和、懐柔といった域を出ず、絶対的な権力を確立するには至りませんでした。信長とは違って最後まで本拠地を甲府から動かせなかったことは、みずからも在地領主的な存在から抜け出せなかったことにほかなりません。先祖からの領地、あるいはみずからが開発した領地を動くということ自体が困難な発想でした。
信長は常備兵を組織し、また秀吉や明智光秀、滝川一益ら領地を持たない層からも家臣を取り立てたため、家臣の掌握や本拠地の移動が可能となりました。これらは急速な領地拡大にともなう必然だったと言ってもいいかもしれません。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
早すぎた改革者だったのかもしれない。
「戦国人物紹介」
009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (後編)
「暴君」として名高いのですが、内藤、馬場、山県ら家臣を手討ちにしたというのは家臣統制のために必要なことですし(信長の例を見るまでもない。ちなみにそれぞれの家は信玄の代に復興している)、妊婦の腹を生きたまま裂いたというのは中国の暴君伝説の引用でしょう。新たに政権を掌握した側が、旧政権の人間を悪人とするのはいまも昔も変わりません。ただ、信虎が追放されて甲斐の領民は喜んだという記録がありますから、もうからない戦争を繰り返して家臣や領民のひんしゅくを買っていたことはうかがえます。
信虎追放のクーデターの理由については諸説あります。信虎が晴信(信玄)を差し置いて、二男信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたため晴信派が起こしたという説。しかし、これはクーデター後に信繁が排斥されず、晴信の代に重用されたことからもやや考えづらいところがあります。
また、度重なる戦いで武田家臣、領民らに負担がかかったため、不満を募らせた家臣団が晴信を擁立したという見方もあります。たしかに、このクーデターでは板垣信方や甘利虎泰といった一派が晴信を擁立する形で動いています。晴信が主導するというよりもむしろ、家臣団の主導で起こったクーデターは、その後の晴信の行動にも少なからず制約を与え、彼ら家臣団の意向というものは、晴信と嫡男義信との間に駿河をめぐる外交路線の対立が起こった際にも再び登場してきます。
信玄や謙信といえども、家臣の生殺与奪を握るまでの絶対的な権力を握ることはできませんでした。領地と兵を持った家臣(在地領主、国人)の意向は無視できません。実際、家臣の統制に乗り出した信虎は追放されました。謙信も家臣の統率には苦労し、嫌気がさした謙信は出家すると言って出奔する騒動まで起こしています(計画的行動とも言われるが、本当に嫌気がさしたという説も有力)
信玄は侵略戦争を起こし、それに勝利し続けることで家臣の目を外に向けさせ、家臣の掌握に成功しました。しかし、本質的には融和、懐柔といった域を出ず、絶対的な権力を確立するには至りませんでした。信長とは違って最後まで本拠地を甲府から動かせなかったことは、みずからも在地領主的な存在から抜け出せなかったことにほかなりません。先祖からの領地、あるいはみずからが開発した領地を動くということ自体が困難な発想でした。
信長は常備兵を組織し、また秀吉や明智光秀、滝川一益ら領地を持たない層からも家臣を取り立てたため、家臣の掌握や本拠地の移動が可能となりました。これらは急速な領地拡大にともなう必然だったと言ってもいいかもしれません。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
早すぎた改革者だったのかもしれない。
PR