兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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藤堂高虎はテクノクラートだと思っています。ほかにもいろいろな側面がありますけどね。
「歴史群像」8月号の藤堂高虎を読んで感じたのは、集権派というのが具体的にどの人々のことを指すのだろうかということです。
石田三成が筆頭なのはわかりますが、ほかに誰が該当するのかよくわかりません。三成一人で権力を振りかざしていたというのはやや無理があります。
大和大納言家断絶の後に大和郡山城主となった増田(ました)長盛は含めていいでしょう。三成や長盛と同じ五奉行である長束(なつか)正家もそうでしょうか。あとは五奉行で見ていくと浅野長政は三成と対立して排斥されていますし、子の幸長(よしなが)も反三成、親家康です。前田玄以は公家、寺社、京の内政担当で、必ずしも三成と同じような集権派とは言いにくいと思います。
あとは関ヶ原の負け組で見ていくと、小西行長は三成とは親しかったものの独立した大名ですし(武断派と言われる加藤清正らとは仲が悪い)、安国寺恵瓊は毛利家の外交僧に過ぎません。
五大老も多くは関ヶ原で西軍に属しますが、当時生存していた前田利家にしても毛利輝元にしても、独立した大名であり、むしろ分権的考えに近かったと思います(秀長や家康を分権派としても、ほかの分権的考えを持つ大名と集団を同じにするとは限らない)
となると、誰が集権的指向を持っていたのかと考えると、残る可能性としては秀吉本人しかありません。秀吉の威を借る三成というところなのでしょうか。またあらためて考えてみたいと思います。
「歴史群像」8月号の藤堂高虎を読んで感じたのは、集権派というのが具体的にどの人々のことを指すのだろうかということです。
石田三成が筆頭なのはわかりますが、ほかに誰が該当するのかよくわかりません。三成一人で権力を振りかざしていたというのはやや無理があります。
大和大納言家断絶の後に大和郡山城主となった増田(ました)長盛は含めていいでしょう。三成や長盛と同じ五奉行である長束(なつか)正家もそうでしょうか。あとは五奉行で見ていくと浅野長政は三成と対立して排斥されていますし、子の幸長(よしなが)も反三成、親家康です。前田玄以は公家、寺社、京の内政担当で、必ずしも三成と同じような集権派とは言いにくいと思います。
あとは関ヶ原の負け組で見ていくと、小西行長は三成とは親しかったものの独立した大名ですし(武断派と言われる加藤清正らとは仲が悪い)、安国寺恵瓊は毛利家の外交僧に過ぎません。
五大老も多くは関ヶ原で西軍に属しますが、当時生存していた前田利家にしても毛利輝元にしても、独立した大名であり、むしろ分権的考えに近かったと思います(秀長や家康を分権派としても、ほかの分権的考えを持つ大名と集団を同じにするとは限らない)
となると、誰が集権的指向を持っていたのかと考えると、残る可能性としては秀吉本人しかありません。秀吉の威を借る三成というところなのでしょうか。またあらためて考えてみたいと思います。
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