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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■甲斐武田氏3

武田氏の個別の人物に触れる前に前置きです。以下の視点を頭の片隅に置いていただければと思います。

ゲームと違って、実際の戦国時代において、主君と家臣の関係はいつも良好だったわけではありません。いまでは家臣と見なされている人々も「同盟者」に過ぎない場合もあります。木曾、小山田、穴山・・・。武田滅亡における「裏切り者」とされますが、いつから「家臣」となったのでしょうか。

さて、いわゆる家臣という人々は「一門」「譜代」「外様」などに分かれますが、特に一門や譜代などは彼ら独自の土地と領民を支配していることが一般的でした。当然、大名自身の権力とぶつかることもありました。支配を強化しようとする大名と家臣の間には緊張感が存在していました。この微妙な均衡の上に大名の権力が乗っていたともいえます。

武田信虎は他国から家臣を迎え入れて独自の軍事力を編成しようとしました。反抗する家臣を粛清し、甲府に城下町を作ったのも家臣統制の一環です。しかし、1541年、道半ばにして一門、譜代の代表とも言える板垣・甘利らによって追放されてしまいます。「暴君」の烙印まで押されて。そして彼らによって擁立されたのが晴信(信玄)です。当然、彼らの意向は無視できません。

信玄は信濃侵略を始めます。戦い続け、勝ち続けることで、家臣たちの支持を得ます。ここで、1548年、信濃攻めの最中、村上義清との上田原の戦いで板垣・甘利らが戦死してしまい、信玄の制約は大きく減ることになります。この前後、馬場、工藤(のちの内藤)、高坂などの家を復活させており、彼らは信玄の忠実な家臣として活躍します。

しかし、信玄は家中の統制に完全に成功したわけではありません。信濃攻めの最後、上杉謙信との川中島の戦いが終わる頃になると、再び武田家中に不穏な空気が流れます。信玄と嫡男義信の対立です。おもに駿河との外交方針をめぐって起こったこの対立は、最終的には1567年の義信の自害(病死とも)という形で幕を閉じます。このときに義信派として自害させられたのが飯富虎昌(山県昌景の兄)です。飯富は信虎追放のクーデターにも加担しており、今回で二回目になります。

このあと、信玄は家臣に起請文を書かせ、自らへの忠誠を誓わせます。臨終の間際に諸大名から誓紙を取って秀頼への忠誠を誓わせた秀吉と変わりません。信玄も対応を誤れば、信虎のように追放されていた可能性もありました。このように、戦国大名といっても初めから絶対的な権力を持っていたわけではなく、家臣の支持を失えば追放されたり殺されたりする危うさをはらんでいたのです。織田信長の場合と比較してみるのも面白いかもしれません。
 
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無題
信長は割りと謀反慣れしている印象がw慣れているせいで最後の一撃があんな感じになったのかもと妄想してみましたが。

武田家って「人は石垣~」なんてフレーズがあるから磐石だったと思い込んでいたのですが、そうでもなかったんですね。不勉強さに反省。
amasiz 2010/07/17(Sat)19:23 編集
無題
ということで、そのへんを感じさせないのが信玄の偉大なところなのかなあと。

激しくやってしまうと信長になってしまうw

本能寺は油断なのかねえ。後継者とともに少数の兵しかいないところを襲われるという最悪の展開。
Rakuna 2010/07/17(Sat)20:31 編集
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