兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
九州でいってみましょう、マイナー武将特集!
茶器が救った家名、子孫に名君が出る
秋月種長 【あきづきたねなが】 1567-1614
長門守。種実の子。秋月氏は渡来系である阿智使主(あちのおみ、後漢の最後の皇帝である献帝の後裔という)の子孫と言われ、代々筑前秋月に住んで、弘安の役(元寇)にも出陣、南北朝時代には菊池氏とともに南朝方となっている。1557年、祖父秋月文種と長男の晴種は大友宗麟に攻められて自害し、二男の種実は家臣に連れられて古処山城を脱出する。1559年、秋月氏を復興し、毛利氏と結んで大友氏に抵抗するが、結局は大友氏に降伏した。その後、大友氏が衰退して島津氏の勢力が伸びてくると島津氏と結ぶが、1586年、秀吉の九州攻めに遭うと、種長ともども降伏した。名物の茶器である楢柴肩衝(ならしばかたつき、初花、新田肩衝と並んで「天下三肩衝」と呼ばれた茶入)を差し出して家名は保ったが、所領は筑前秋月から日向櫛間(福島)城に移された。児島郡と諸県郡の一部などで三万石を領する。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備する。本戦で主力が敗退すると、相良頼房(長毎)や実弟の高橋元種とともに、垣見家純(一直)、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。のち、居城を櫛間から財部(高鍋)に移し、そのまま廃藩を迎えた。ちなみに、七代藩主種茂の弟は、出羽米沢藩に養子入りした上杉鷹山(ようざん、名は治憲)である。優秀な遺伝子だったのだろうか。
乱世を生き残るが関ヶ原で失敗
筑紫広門 【つくしひろかど】 1556-1623
二九市丸、左馬頭、上野介、従五位下。惟門の子。鎌倉時代以来の名族である少弐氏の一族と言われ、筑前に割拠した豪族。小勢力の常で、少弐氏、大内氏、毛利氏などに属した。その後は高橋紹運(立花宗茂の実父)の宝満城を攻めるなど大友氏と対立するが、広門と紹運の妻が姉妹(斎藤兵部大輔鎮実の娘)であったことから和議が成立し、広門の娘を紹運の二男統増(のちの立花直次)の室として大友方となった。
1586年、島津軍が北上して大友領への侵攻が始まると、高橋紹運は岩屋城で玉砕したが、広門は嫡子(弟とも)晴門が戦死すると島津軍に降伏した。筑後大善寺に幽閉されたが、秀吉の九州攻めが始まると、脱出して家臣を集め、肥前五ヶ山城を奪って旧領を回復、秀吉軍に加わって筑後上妻郡山下城一万八千石を安堵された。朝鮮出兵にも従軍した。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して、伏見城、大津城攻撃に加わる。本戦での主力敗戦後、帰国して加藤清正の家臣に城を明け渡した。入道して夢庵と号し、清正、ついで細川忠興に寄食した。子の広門(父と同名、主水正)は大坂の陣での戦功を理由に三千石を与えられ、子孫は旗本として続いた。

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大勢力の中を必死に生き抜いた彼らの姿も見てほしい。
九州でいってみましょう、マイナー武将特集!
茶器が救った家名、子孫に名君が出る
秋月種長 【あきづきたねなが】 1567-1614
長門守。種実の子。秋月氏は渡来系である阿智使主(あちのおみ、後漢の最後の皇帝である献帝の後裔という)の子孫と言われ、代々筑前秋月に住んで、弘安の役(元寇)にも出陣、南北朝時代には菊池氏とともに南朝方となっている。1557年、祖父秋月文種と長男の晴種は大友宗麟に攻められて自害し、二男の種実は家臣に連れられて古処山城を脱出する。1559年、秋月氏を復興し、毛利氏と結んで大友氏に抵抗するが、結局は大友氏に降伏した。その後、大友氏が衰退して島津氏の勢力が伸びてくると島津氏と結ぶが、1586年、秀吉の九州攻めに遭うと、種長ともども降伏した。名物の茶器である楢柴肩衝(ならしばかたつき、初花、新田肩衝と並んで「天下三肩衝」と呼ばれた茶入)を差し出して家名は保ったが、所領は筑前秋月から日向櫛間(福島)城に移された。児島郡と諸県郡の一部などで三万石を領する。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めに加わり、その後は美濃大垣城を守備する。本戦で主力が敗退すると、相良頼房(長毎)や実弟の高橋元種とともに、垣見家純(一直)、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を謀殺して東軍に降った。のち、居城を櫛間から財部(高鍋)に移し、そのまま廃藩を迎えた。ちなみに、七代藩主種茂の弟は、出羽米沢藩に養子入りした上杉鷹山(ようざん、名は治憲)である。優秀な遺伝子だったのだろうか。
乱世を生き残るが関ヶ原で失敗
筑紫広門 【つくしひろかど】 1556-1623
二九市丸、左馬頭、上野介、従五位下。惟門の子。鎌倉時代以来の名族である少弐氏の一族と言われ、筑前に割拠した豪族。小勢力の常で、少弐氏、大内氏、毛利氏などに属した。その後は高橋紹運(立花宗茂の実父)の宝満城を攻めるなど大友氏と対立するが、広門と紹運の妻が姉妹(斎藤兵部大輔鎮実の娘)であったことから和議が成立し、広門の娘を紹運の二男統増(のちの立花直次)の室として大友方となった。
1586年、島津軍が北上して大友領への侵攻が始まると、高橋紹運は岩屋城で玉砕したが、広門は嫡子(弟とも)晴門が戦死すると島津軍に降伏した。筑後大善寺に幽閉されたが、秀吉の九州攻めが始まると、脱出して家臣を集め、肥前五ヶ山城を奪って旧領を回復、秀吉軍に加わって筑後上妻郡山下城一万八千石を安堵された。朝鮮出兵にも従軍した。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して、伏見城、大津城攻撃に加わる。本戦での主力敗戦後、帰国して加藤清正の家臣に城を明け渡した。入道して夢庵と号し、清正、ついで細川忠興に寄食した。子の広門(父と同名、主水正)は大坂の陣での戦功を理由に三千石を与えられ、子孫は旗本として続いた。
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大勢力の中を必死に生き抜いた彼らの姿も見てほしい。
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