兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
038 毛利隆元 【もうりたかもと】 1523-63
少輔太郎。備中守、大膳大夫、従四位下。幼名は少輔太郎(しょうのたろう)で、父の幼名「少輔次郎」にならったものです。もっと幼少期には「松寿丸」のような幼名があったと思われますが伝わっていません。
毛利元就には九人の男子と二人の女子がいたと伝わりますが、その中でも正室の子である三兄弟(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)、と五龍局(ごりゅうのつぼね、宍戸隆家正室)は特に目をかけられました。
三人兄弟となると、一番上は控えめで、責任感が強く(気配りができるが、逆に言うと気難しいところがある)、二番目は元気がよく、上の兄を見ているので要領がいい、三番目は末っ子ということでかわいがられて、自由気ままに育つ、という感じで、三人それぞれのカラーがあります。このへんは大河ドラマの「毛利元就」でも上川隆也が、偉大な父と優秀な弟に囲まれて、すぐ気に病む隆元の性格をうまく演じていたように思います。私も三人兄弟の一番上なので、長男の隆元には同情します。
1537年、十五歳の時に長男でありながら大内義隆の元に人質として送られますが、義隆には大いに気に入られ(容姿端麗だったともいう)、義隆から加冠され(烏帽子親として元服し)、一字を賜って「隆元」と名乗ります。のちに義隆の養女(内藤興盛の娘)を正室としています。人質ではありましたが、厚遇されて山口で優雅な生活を送り、高い教養を身につけることになります。ただ、将来当主となるには必要以上に温厚になりすぎたと言われることもあります。
1540年、安芸に戻って家督を継ぎ(年代には諸説ある、また父が偉大すぎるため、再三固辞して、父が実権を握り続けたという)、元就とともに尼子氏と戦います。1555年の厳島の戦いでも主戦派として家中をまとめ、元就とともに渡海して義隆の仇である陶晴賢と戦っています。1560年には安芸、1562年には備中・長門、1563年には周防の守護となり、将来を期待されますが、尼子氏との戦いの途上、安芸佐々部で急死します。享年四十一歳。暗殺されたという説もありますが、ともかく、元就はその死を嘆き、「早く死んで隆元のところに行きたい」とこぼし続けるようになったと言います。隆元の後は嫡男の輝元が継ぎますが、引き続き元就が実権を握り続けることになりました。
自画像
戦国武将としては非常に珍しく、自画像を残しています。顔の部分だけを書いて衣装の部分はあとから貼ってつけたような画ですが。他に信玄の弟信廉(逍遥軒)も絵画に巧みであったことが知られています。
銀山開発
隆元の死後、毛利家の収入が激減し、最後までその穴を埋められなかったと言います。卓越した内政・財務手腕を持っていたことを示す話です。偉大な父、東西に活躍する二人の弟を尻目にせっせと銀山開発に励み、朝廷に献金していたことは、毛利家を勤皇の家とすることに貢献しましたから、維新の陰の功労者と言えるかもしれません。

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もしかしたら維新の陰の功労者。
038 毛利隆元 【もうりたかもと】 1523-63
少輔太郎。備中守、大膳大夫、従四位下。幼名は少輔太郎(しょうのたろう)で、父の幼名「少輔次郎」にならったものです。もっと幼少期には「松寿丸」のような幼名があったと思われますが伝わっていません。
毛利元就には九人の男子と二人の女子がいたと伝わりますが、その中でも正室の子である三兄弟(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)、と五龍局(ごりゅうのつぼね、宍戸隆家正室)は特に目をかけられました。
三人兄弟となると、一番上は控えめで、責任感が強く(気配りができるが、逆に言うと気難しいところがある)、二番目は元気がよく、上の兄を見ているので要領がいい、三番目は末っ子ということでかわいがられて、自由気ままに育つ、という感じで、三人それぞれのカラーがあります。このへんは大河ドラマの「毛利元就」でも上川隆也が、偉大な父と優秀な弟に囲まれて、すぐ気に病む隆元の性格をうまく演じていたように思います。私も三人兄弟の一番上なので、長男の隆元には同情します。
1537年、十五歳の時に長男でありながら大内義隆の元に人質として送られますが、義隆には大いに気に入られ(容姿端麗だったともいう)、義隆から加冠され(烏帽子親として元服し)、一字を賜って「隆元」と名乗ります。のちに義隆の養女(内藤興盛の娘)を正室としています。人質ではありましたが、厚遇されて山口で優雅な生活を送り、高い教養を身につけることになります。ただ、将来当主となるには必要以上に温厚になりすぎたと言われることもあります。
1540年、安芸に戻って家督を継ぎ(年代には諸説ある、また父が偉大すぎるため、再三固辞して、父が実権を握り続けたという)、元就とともに尼子氏と戦います。1555年の厳島の戦いでも主戦派として家中をまとめ、元就とともに渡海して義隆の仇である陶晴賢と戦っています。1560年には安芸、1562年には備中・長門、1563年には周防の守護となり、将来を期待されますが、尼子氏との戦いの途上、安芸佐々部で急死します。享年四十一歳。暗殺されたという説もありますが、ともかく、元就はその死を嘆き、「早く死んで隆元のところに行きたい」とこぼし続けるようになったと言います。隆元の後は嫡男の輝元が継ぎますが、引き続き元就が実権を握り続けることになりました。
自画像
戦国武将としては非常に珍しく、自画像を残しています。顔の部分だけを書いて衣装の部分はあとから貼ってつけたような画ですが。他に信玄の弟信廉(逍遥軒)も絵画に巧みであったことが知られています。
銀山開発
隆元の死後、毛利家の収入が激減し、最後までその穴を埋められなかったと言います。卓越した内政・財務手腕を持っていたことを示す話です。偉大な父、東西に活躍する二人の弟を尻目にせっせと銀山開発に励み、朝廷に献金していたことは、毛利家を勤皇の家とすることに貢献しましたから、維新の陰の功労者と言えるかもしれません。
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もしかしたら維新の陰の功労者。
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