兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■関東の名門・上杉家
のちに上杉家の名跡を譲られる長尾景虎(上杉謙信)の本姓は桓武平氏とされるが、もとの上杉氏の本姓は藤原氏である。藤原重房が丹波上杉荘を管理しており、のちに上杉氏を称することになる。
重房の子頼重の娘清子は足利氏に嫁ぎ、高氏(のちの尊氏)、直義の兄弟をもうける。以後、多くの分家が出るが、関東管領として関東の治世に重きをなした、というか関東公方とともに関東の争乱の中心となる。
・山内上杉氏
頼重の孫憲顕に始まる。憲顕は鎌倉府(室町幕府が置いた地方機関の一つ。関東八カ国と伊豆、甲斐を統括。尊氏の四子である基氏の子孫が鎌倉公方を世襲)の執事を務める。のち上杉氏の宗家となり関東管領職を承継する。
憲顕の子憲方が鎌倉山内に居を定めたため山内上杉という。
十代顕定は扇谷上杉定正と対立、1507年、越後守護の上杉房能(越後上杉氏)が守護代長尾為景(上杉謙信の父)に攻め殺されると、越後に出兵し、一時は為景を越中に追うが、1510年再起した為景軍と戦って敗死する。以後は衰退し、十二代憲政は北条氏康に追われて越後の長尾景虎を頼り、景虎に上杉の家督と関東管領職を譲る。
・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏
頼重の子重顕が鎌倉扇谷に屋敷を構えたことによる。上杉禅秀の乱で四代氏定が自刃。その後も当主を相次いで失い、太田道灌らは定正を擁立する。道灌の活躍で大いに名を高めるが、のちに対立して定正が道灌を謀殺したため、衰退する。朝興・朝定は北条氏と戦うが敗れ、朝定の敗死により扇谷上杉氏は滅んだ。
・犬懸(いぬかけ)上杉氏
頼重の孫憲藤が鎌倉の犬懸谷に住んだため犬懸上杉氏と呼ぶ。憲藤の孫氏憲(禅秀)は関東管領となるが、関東公方の足利持氏と対立し、更迭される。1416年、禅秀は関東周辺の豪族に呼び掛けて決起、持氏に対して反乱を起こす。一時は鎌倉を制圧するなど勢力を拡大するが、今川氏、佐竹氏などの反攻を受け、禅秀は自害し、犬懸上杉氏は滅んだ。
頼重の孫憲藤が鎌倉の犬懸谷に住んだため犬懸上杉氏と呼ぶ。憲藤の孫氏憲(禅秀)は関東管領となるが、関東公方の足利持氏と対立し、更迭される。1416年、禅秀は関東周辺の豪族に呼び掛けて決起、持氏に対して反乱を起こす。一時は鎌倉を制圧するなど勢力を拡大するが、今川氏、佐竹氏などの反攻を受け、禅秀は自害し、犬懸上杉氏は滅んだ。
ほかにも詫間(たくま)上杉氏、深谷(庁鼻、こばなわ)上杉氏、越後上杉氏など一族は多いが、江戸時代に大名として残ったのは、山内上杉氏の憲政から上杉の家名を譲られた長尾景虎(上杉謙信)の養子上杉景勝の米沢藩だけである。もとの藤原姓上杉氏の血筋は大名として残らなかった。
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