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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■毛利元就5


家臣統制
元就一代で中国地方を制覇したが、もとは安芸の国人領主の一つに過ぎず、他の国人領主や他家の家臣を毛利家の家臣とすることには苦労した。これは信玄や謙信も同じである。

大内氏を滅ぼした1557年に家督を長男の隆元に譲って隠居した形を取るが、このときに遺しているのがいわゆる「三子教訓条」である。あまりに有名な「三本の矢(三矢の教え、三矢の訓え)」の逸話の元となった遺訓である。この中で、二男元春と三男隆景に「他家を継いでいるが毛利をおろそかにしてはならない」と主家毛利家を大事にするよう説いている(大河ドラマ「毛利元就」の毛利元就も愚痴をこぼすことが多かったが、実際の元就の書状もくどいものが多い)。自分の子を当主として送り込んだとはいえ、吉川家は安芸の地頭、小早川家は安芸の国人で毛利家とは同格と言ってよい。

元就はさらに自分を含めた安芸の国人領主十二人で傘連判状を結んでいる。これは上下関係を明らかにせず、国人領主たちが対等の関係であることを示しているとされる。戦国大名と家臣の関係は、少なくとも形式上同盟関係にある場合も多い。武田家における小山田氏などもそうだが、主家が滅亡の際には離反することも少なくない。

三本の矢
臨終の枕元に三兄弟を呼び寄せたという設定は、隆元が元就に先立って死んでいるからフィクションなのだが、一本の矢が折れるなら、三本の矢でも折れるだろうと思った人、たしかにその通りである。ともかく、一本では折れやすいから、三本を束ねれば折れにくい、三兄弟も結束して毛利家のために尽くしてほしい、というのがこの逸話の主旨である(そのほかの部分は話の尾ひれである)。実際のところは、イソップ童話に「三本の棒」という同様の話があって、この話と三子教訓状の内容を取り入れて創った「おはなし」なのではないかと思う。

名奉行というと、大岡越前の名を真っ先に挙げる人が多いかもしれない。彼は大岡忠相(ただすけ)と言って、八代将軍吉宗の元で江戸の南町奉行を務めた人物である。世に「大岡裁き」「大岡政談」として名高い。その中には二人の母が一人の子をめぐって争った話がある。ご存知の方も多いだろう。簡単にするとこんな話である。

忠相のところに二人の女と一人の子供が来て、二人の女は互いに「自分がこの子の母親だ」と主張する。確かめるすべもないところ、忠相は言った、「それならば互いにその子の右腕と左腕を持って引っ張るがよい」と。二人の女が子供の腕を左右に引っ張り出すと、当然のことながら子供は痛くて泣きだした。そこで片方の女が腕を離してしまう。もう一人の女が「これでこの子は私の子」と主張するが、ここで忠相の御裁き。「実の母であれば子が痛くて泣くのを見て腕を離すのが道理である」と。

この話の元ネタは実は旧約聖書のソロモン王の話と言われる。中世に日本に伝わってきたのを取り入れたという説がある。忠相にケチをつけるわけではないが、逸話の中には有名な人物に仮託して創られた話もあるということだ。

毛利元就についてはここまで。次回から三兄弟を取り上げます。
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