兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「戦国人物紹介」
■毛利元就3
注:最初から話がそれますが、毛利元就の第3回です!
(携帯端末からだと中国人の字が一部出ないのはごめんなさい)
秀吉の「軍師」と言えば、後世に「二兵衛」とも「両兵衛(りょうべえ)」とも謳われた、竹中半兵衛(名は重治)と黒田官兵衛(名は孝高、よしたか。号の如水でも有名)であるが、どちらの方が好きかと言われれば、私は迷わず後者を挙げる。
能力からすれば竹中半兵衛の方が一枚も二枚も上なのだが、内心では秀吉の元で働くことを嫌っており、出家したかったが果たせぬまま死んだ、という話もあるように、あまりに聖人っぽくて隙がない。一方で、黒田官兵衛と言えば、信長が死んだと聞いて嘘泣きしている秀吉の耳元で「ご武運が開けましたぞ(天下取りの好機ですぞ)」などと言ってしまって、秀吉に生涯警戒され続ける二流の人である。こちらの方が俗っぽいというか、人間臭い(これらの逸話もどこまでが真実かあやしいが、特徴を捉えていると思わせる逸話ではある)
漢の高祖(劉邦)の軍師である張良(天下統一後は政権から離れた)と陳平、蜀の劉備の軍師である「伏龍鳳雛」こと諸葛亮(孔明)と龐統(ほうとう)なども、後世の人はうまくカラーを分けて描いたものだと感心する。少しくらいブラックな部分があった方が人を引き付けるのである。
同じく中国には「孫呉の兵法」というのがあって、「孫」は言うまでもなく孫子。孫武、孫臏(そんぴん)の二人がいたと言われる。後者の方はライバルにはめられて足斬りの刑に遭うも、のちに復讐を果たすという苦労人だが、孫武は完全無欠過ぎて面白味を欠く。「呉」は呉起という人物で、魯・魏・楚の各国で重用されて功を立てた。彼の「道理」は他の人の常識とは少し変わっており、そのために苦労することになる。最期もまた劇的である。
さて、毛利元就の話に戻って、元就が尼子氏と争っていたときというから、1560年代のことであろうか。元就の家臣で岩木源六郎道忠という者が膝を矢で射られ、矢尻が抜けずに苦しんでいた。医者を呼んだところ、医者は「膝を切らなければ治らない」と言う。すでに傷が膿んでいたのである。それを聞くと元就は道忠の傷にかぶりつき、膿とともに矢尻まで吸い取ってしまった。道忠が感激したのは言うまでもない。
ただ、この話、呉起の話と似ている。呉起の話はこうである。
呉起は兵を率いる将軍の身分であったが、陣中にあっては兵と同じ者を食べ、同じ所に寝て、兵の中に傷が膿んだ者がいると、膿を自分の口で吸い出してやった。ある時、呉起が兵の膿を吸い出してやると、その兵の母親が嘆き悲しんだ。周りの者が、将軍様が自らあんなことをされているのに、どうして悲しむのだと言うと、母親は言った、「あの子の父親も将軍様に膿を吸っていただいて、感激して敵に突撃して戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と。呉起の兵は命を惜しまずに戦ったので強かったという。
吉川元春の戦歴(一説に七十六戦して六十四勝、十二の引き分け、負けはなし、とされるが実際には負けた戦いもある)が呉起と同じという指摘もあり、後世になって、毛利藩の博識な人間あたりがこのへんの話を創ったのではないかとも想像されるのだがどうだろう。
■毛利元就3
注:最初から話がそれますが、毛利元就の第3回です!
(携帯端末からだと中国人の字が一部出ないのはごめんなさい)
秀吉の「軍師」と言えば、後世に「二兵衛」とも「両兵衛(りょうべえ)」とも謳われた、竹中半兵衛(名は重治)と黒田官兵衛(名は孝高、よしたか。号の如水でも有名)であるが、どちらの方が好きかと言われれば、私は迷わず後者を挙げる。
能力からすれば竹中半兵衛の方が一枚も二枚も上なのだが、内心では秀吉の元で働くことを嫌っており、出家したかったが果たせぬまま死んだ、という話もあるように、あまりに聖人っぽくて隙がない。一方で、黒田官兵衛と言えば、信長が死んだと聞いて嘘泣きしている秀吉の耳元で「ご武運が開けましたぞ(天下取りの好機ですぞ)」などと言ってしまって、秀吉に生涯警戒され続ける二流の人である。こちらの方が俗っぽいというか、人間臭い(これらの逸話もどこまでが真実かあやしいが、特徴を捉えていると思わせる逸話ではある)
漢の高祖(劉邦)の軍師である張良(天下統一後は政権から離れた)と陳平、蜀の劉備の軍師である「伏龍鳳雛」こと諸葛亮(孔明)と龐統(ほうとう)なども、後世の人はうまくカラーを分けて描いたものだと感心する。少しくらいブラックな部分があった方が人を引き付けるのである。
同じく中国には「孫呉の兵法」というのがあって、「孫」は言うまでもなく孫子。孫武、孫臏(そんぴん)の二人がいたと言われる。後者の方はライバルにはめられて足斬りの刑に遭うも、のちに復讐を果たすという苦労人だが、孫武は完全無欠過ぎて面白味を欠く。「呉」は呉起という人物で、魯・魏・楚の各国で重用されて功を立てた。彼の「道理」は他の人の常識とは少し変わっており、そのために苦労することになる。最期もまた劇的である。
さて、毛利元就の話に戻って、元就が尼子氏と争っていたときというから、1560年代のことであろうか。元就の家臣で岩木源六郎道忠という者が膝を矢で射られ、矢尻が抜けずに苦しんでいた。医者を呼んだところ、医者は「膝を切らなければ治らない」と言う。すでに傷が膿んでいたのである。それを聞くと元就は道忠の傷にかぶりつき、膿とともに矢尻まで吸い取ってしまった。道忠が感激したのは言うまでもない。
ただ、この話、呉起の話と似ている。呉起の話はこうである。
呉起は兵を率いる将軍の身分であったが、陣中にあっては兵と同じ者を食べ、同じ所に寝て、兵の中に傷が膿んだ者がいると、膿を自分の口で吸い出してやった。ある時、呉起が兵の膿を吸い出してやると、その兵の母親が嘆き悲しんだ。周りの者が、将軍様が自らあんなことをされているのに、どうして悲しむのだと言うと、母親は言った、「あの子の父親も将軍様に膿を吸っていただいて、感激して敵に突撃して戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と。呉起の兵は命を惜しまずに戦ったので強かったという。
吉川元春の戦歴(一説に七十六戦して六十四勝、十二の引き分け、負けはなし、とされるが実際には負けた戦いもある)が呉起と同じという指摘もあり、後世になって、毛利藩の博識な人間あたりがこのへんの話を創ったのではないかとも想像されるのだがどうだろう。
PR
この記事にコメントする