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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■毛利元就2


1551年、中国地方を揺るがす大事件が起こります。大内義隆の家臣である陶晴賢(隆房)が謀反を起こし、義隆を自害に追い込んだのです(大寧寺の変)。翌年、晴賢は大友宗麟の弟である晴英を大内家の当主大内義長として迎え、傀儡政権を築きます。元就はこれを静観しつつ、備後、石見方面へ勢力を拡大、また尼子氏に謀略を仕掛け、当主晴久の叔父であり武勇に秀でた新宮党の国久、その子誠久を粛清させています(近年では晴久が尼子宗家の支配力強化のために自主的に行ったという説が有力)。

1554年、吉見正頼(室は大内義興の三女)が晴賢に反旗を翻すとこれに呼応し決起。翌年、晴賢は自ら大軍を率いて厳島の宮尾城を攻撃すべく厳島に上陸しますが、元就は陶軍に奇襲をかけて晴賢を自刃に追い込みます(厳島の戦い)。

以後は防長二国の攻略を進め、1557年には大内義長を討って大内氏を滅ぼしました。その後は北九州の支配権をめぐって大友氏と争い、一方で尼子氏と中国地方の覇権をかけて争います。尼子氏との戦いは、1566年に尼子氏の本拠である月山富田城を陥落させ、中国平定を成し遂げます。1571年に死去、七十五歳。生涯に戦った合戦は確認されるものだけで大小二百を超えるとされており、戦国時代だけでなく、世界的に見ても比類がありません(信玄や謙信でも百戦に達していない)。

厳島の戦い
陶晴賢を討つべく決起した元就だが、陶方の兵が二万を超える一方、毛利側の兵は四千でしかなかった。ここに元就は謀略の限りを尽くすことになる。まずは陶氏の重臣の江良房栄に内応の調略をかけるが、これを拒否されると、「房栄が元就と内応している」と虚偽の情報を流し、晴賢に房栄を殺させることに成功する。 陶方との決戦の機運が高まると、厳島に宮尾城を築き、陶方から寝返った二将に守備を任せ、「厳島に兵力を割いたのは失敗だったかもしれない」と虚報を流した。また重臣の桂元澄に「晴賢が厳島を攻めれば背後から元就を攻める」と神仏に誓った書状まで書かせ、晴賢を厳島に誘った。狭い厳島に大軍が上陸すれば身動きが取りづらくなると読んでのことである。さらに伊予の村上水軍の協力も取り付け、陶軍と戦う準備を整えた。

1555年9月21日、晴賢は自ら兵を率いて厳島に上陸し、宮尾城への攻撃を開始した。毛利軍は30日に暴風雨の中、海を渡り、翌日の夜明けから、元就・隆元・元春の主力と隆景の別働隊が陶軍を挟撃。陶軍は総崩れとなり、晴賢は厳島からの脱出を図ったが、海上は村上水軍に制圧されており、逃げ切れなくなった晴賢は自害して果てた。

日本三大奇襲の一つとされるが(他は河越夜戦と桶狭間の戦い。ただし桶狭間の戦いは奇襲ではない)、後世の軍記物の影響を受けており、実際の戦況がどのようなものだったか、正確にはわかっていない。ただ、この戦い以後、大内家は急速に衰退し、毛利家が勢力を伸ばしていくことになる。
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