兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
036 陶晴賢 【すえはるかた】 1521-55(享年35) 前編
「晴賢」と名乗ったのは、1551年に主君の大内義隆を殺したあとに擁立した大内晴英(のちに義長と改名)から一字を拝領した時からである。それまでは「隆房」と名乗っていた。晴賢の方が知られているため、本稿では基本的に晴賢で通す。
五郎、中務大輔、従五位上尾張守。陶氏は大内氏の一族で、右田氏の分かれである。父は周防守護代陶興房、母は同族右田隆康の妹。陶弘護は応仁の乱の際に在国して大内教幸の反乱を鎮圧し、在京していた大内政弘を助けた。その子が興房で、北九州・中国地方で軍功があったが、和歌や連歌にも優れた人物で、公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩(宗祇の弟子)とも交流があった。
1539年、興房が死去すると、家督を継いだ晴賢は翌年からの吉田郡山城の戦いに参戦、大内軍を率いて尼子晴久の軍を破る。しかし、1542年の尼子領侵攻(月山富田城攻め)には失敗し、大内晴持(義隆の養嗣子)を失う。このため、義隆は政治に関心を示さなくなり、文化面に傾いていく。そんな中、文治派の相良武任と対立し、義隆との関係も悪化していく。軍事を放棄した義隆に武断派の晴賢はたびたび諫言を行うが、聞き入れられることはなかった。
1551年、晴賢は決起すると、山口を襲撃し、大寧寺で義隆を自害させる。ついで、大友氏から宗麟の弟であり、義隆の甥に当たる大友晴英(母が義隆の父義興の娘)を大内家の当主に迎えた。晴英は大内義長と名乗り、晴賢も初名の隆房から改名している。
そんな大内家の内紛をじっと見ていたのが安芸の毛利元就である。大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼が陶氏打倒を目指して挙兵する。これはいったん講和となるが、1555年、再び正頼が挙兵すると、これに呼応した元就は大内軍の隙を突いて安芸の大内方の城を落とし、安芸を支配下に収める。晴賢は自ら兵を率いて安芸厳島に侵攻するが、毛利軍の奇襲によって敗北し、自害した(厳島の戦い)。その後の大内氏は毛利氏の防長(周防・長門)攻略に遭い、抵抗するも敗れて、1557年、大内義長が自害。ここに名実ともに大内氏は滅亡した。

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文武に秀でた名将になる素養は秘めていたのだが、主君に恵まれず。
036 陶晴賢 【すえはるかた】 1521-55(享年35) 前編
「晴賢」と名乗ったのは、1551年に主君の大内義隆を殺したあとに擁立した大内晴英(のちに義長と改名)から一字を拝領した時からである。それまでは「隆房」と名乗っていた。晴賢の方が知られているため、本稿では基本的に晴賢で通す。
五郎、中務大輔、従五位上尾張守。陶氏は大内氏の一族で、右田氏の分かれである。父は周防守護代陶興房、母は同族右田隆康の妹。陶弘護は応仁の乱の際に在国して大内教幸の反乱を鎮圧し、在京していた大内政弘を助けた。その子が興房で、北九州・中国地方で軍功があったが、和歌や連歌にも優れた人物で、公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩(宗祇の弟子)とも交流があった。
1539年、興房が死去すると、家督を継いだ晴賢は翌年からの吉田郡山城の戦いに参戦、大内軍を率いて尼子晴久の軍を破る。しかし、1542年の尼子領侵攻(月山富田城攻め)には失敗し、大内晴持(義隆の養嗣子)を失う。このため、義隆は政治に関心を示さなくなり、文化面に傾いていく。そんな中、文治派の相良武任と対立し、義隆との関係も悪化していく。軍事を放棄した義隆に武断派の晴賢はたびたび諫言を行うが、聞き入れられることはなかった。
1551年、晴賢は決起すると、山口を襲撃し、大寧寺で義隆を自害させる。ついで、大友氏から宗麟の弟であり、義隆の甥に当たる大友晴英(母が義隆の父義興の娘)を大内家の当主に迎えた。晴英は大内義長と名乗り、晴賢も初名の隆房から改名している。
そんな大内家の内紛をじっと見ていたのが安芸の毛利元就である。大内義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼が陶氏打倒を目指して挙兵する。これはいったん講和となるが、1555年、再び正頼が挙兵すると、これに呼応した元就は大内軍の隙を突いて安芸の大内方の城を落とし、安芸を支配下に収める。晴賢は自ら兵を率いて安芸厳島に侵攻するが、毛利軍の奇襲によって敗北し、自害した(厳島の戦い)。その後の大内氏は毛利氏の防長(周防・長門)攻略に遭い、抵抗するも敗れて、1557年、大内義長が自害。ここに名実ともに大内氏は滅亡した。
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文武に秀でた名将になる素養は秘めていたのだが、主君に恵まれず。
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