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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

少なくとも中世であれば、権力者の子がその地位を世襲するということは当然のこと(血こそが正統性の証である)で、金正恩も中世に生まれていれば危なげなく権力者の地位を継承していたと思われますが、いまは中世ではありません。社会主義国家が世襲をするのも極めて異例ですし、北朝鮮が中世の段階にしか達していないという一つの証左かもしれません、政治だけでなく経済も含めて。日本に世襲政治家が多いことも時代錯誤の感は否めません、国民性なのかもしれませんが。権力者は担がれているだけで、実務を担う人が利益配分をするのが日本の形です。

さて、系図が好きで、武将個人だけでなく、「家」もよく見ることが多いです。系図自体はその家をより良く見せるために、有名な人物につなげたり、出自を偽ったりと、「粉飾」がなされていることが多いので、一級資料とは言えないことが多いのですが、連綿と血が(時に現代まで)つながっているのを見ると感動します。 いままで何百という家の系図を見てきましたが、長く続けば続くほど、大きければ大きいほど、必ずと言っていいほど、家督争いが起こります。優秀な当主を失った場合に、後継者を巡って家中を二分するような内紛が起こることもよくあります。

織田信長は父信秀の死後、弟信勝(信行)と家督を争いましたし、信長の死後も織田家の家督争いがありました(信長は生前家督を嫡男の信忠に譲っていたが、本能寺の変で信忠も死んだため、二男信雄と三男信孝が家督を争った)。豊臣家も秀次から秀頼への継承はすんなりといきませんでしたし、徳川家にも家康の次は誰かという後継者問題が存在しました。信玄は父信虎を追放して家督を継ぎましたし、謙信の死後、上杉家は内乱状態となりました。一見、盤石に見える伊達家や島津家にも家督争いがありました。

ここまでが大内義隆の長い前振り。大内家も家督争いがあって、足利義満に挑戦した義弘の死後や、その後の内乱を制して家督を継いだ盛見の死後など、家督をめぐる争いがあり、政弘が応仁の乱で在京したときも地元では叔父教幸の反乱がありました。一方で、大内家の中興の祖とも言われ、全盛期を築いた義興には嫡子義隆のほか後継者はなく、家督継承も円滑に行われました。家督争いの続く家で行われた円滑な家督継承、ここに緩みがあったかもしれず、大内家が滅びる遠因を見ます。

035 大内義隆 【おおうちよしたか】 1507-51

父は義興、母は長門守護代内藤弘矩の娘。亀童丸。周防介、大内介ほか。周防・長門・石見・豊前・筑前・安芸守護。左京大夫、左兵衛権佐、兵部権大輔、伊予介、太宰大弐、兵部卿、侍従、従二位。元服後は父に従って安芸に出陣するが、1528年、父の死により家督を継いでからは北九州の経略に注力した。少弐氏・大友氏らとの戦いは一進一退が続くが、1536年には太宰大弐に任じられ、太宰少弐であった武藤(少弐)資元を肥前多久城に討って少弐氏を滅亡させた(のち子の冬尚が再興するが、龍造寺隆信に滅ぼされる)

父義興は十年間在京して幕政に関与したこともあり、1537年、義隆も将軍足利義晴から幕政に参与するよう招かれ、上洛を計画する。しかし、尼子氏の勢力伸長もあり領国経営に専念するため断念した。1540年、大内氏に属していた安芸吉田郡山城の毛利元就が尼子氏に攻められると、重臣の陶隆房(のちの晴賢)らを援軍として送ってこれを撃破し(吉田郡山城の戦い)、翌年には厳島神主家の友田氏、銀山城の安芸武田氏を滅ぼして、安芸を領国に収めた。

1542年には尼子氏を討つために大軍を率いて出雲に遠征し月山富田城を囲んだが、戦線は膠着状態となった。越冬を余儀なくされ、兵站の維持に困難を極めたことから、大内軍の士気は低下、国人衆の離反もあって敗北を喫することとなった。敗走する中で養嗣子晴持(義隆の姉の子)は溺死、以後、政治に関心を失ったと言われる。1545年には嫡子義尊(よしたか、と読むと父と同じ読みになる)が生まれているが、文治的な傾向は変わらなかった。文治派の相良武任(肥後の相良氏の一族という)らを重用したことから、武断派の陶隆房らの反発を招き、1551年、陶隆房が兵を挙げると山口を逃れたが暴風雨のため逃げきれず、長門大寧寺にて自害した。嫡男の義尊も殺され、大内家の正統は事実上滅亡した。

義隆は大内家の歴代の中に限らず、戦国大名の中でも特に好学で、類を見ない文化人であった。儒学や和歌、連歌などに秀で、有職故実にも精通していた。ザビエルに布教を許可し、明や朝鮮との貿易も栄えた。また三条西実隆、吉田兼右、飛鳥井雅俊ら多くの文化人と交流した。
 


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まさかのメガネw(2回目)

今川義元のように家督争いを経ていたら、もう少し変わった人生になっていたかもしれない。中国地方のみならず、北九州にも覇を唱え、毛利元就も従わせていた大内氏はもっと評価されてよい。
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