兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
大内氏・西日本最強の勢力
戦国時代における中国地方の歴史となると、最終的に中国地方を制覇した毛利元就をはじめとする、毛利氏中心の歴史になるのだが、毛利氏飛躍の転機となった陶晴賢との厳島の戦いを書き、さらにそれ以前、大内氏の歴史について語らなければならない。毛利氏も元は大内氏に仕える安芸の国人領主に過ぎなかったのである。
大内氏と言うと、文弱に流れた大内義隆が陶晴賢の謀叛に遭って自害し、実質的に滅んだ場面の印象が強く、今川義元や朝倉義景に近い分類をされているのではないかと思うが、戦国時代になって毛利氏や大友氏が台頭するまで、室町時代にあっては西日本における最大最強の勢力であったと言っていい。それは軍事力だけではなく、日明貿易による経済力、山口の文化都市としての繁栄など多くの範囲に渡る。
さて、大内氏は日本の氏族としては珍しく、「源平藤橘」につながらず(つなげておらず)、日本に仏教を伝えた(仏教公伝)百済の聖明王の第三子である琳聖(りんしょう)太子の子孫を自称している。これは朝鮮半島との貿易を有利にするためと言われているが、太子の存在自体は疑われており(記録にない)、実際は平安時代の多々良氏の末裔とされている。周防吉敷郡大内県に住み、また周防の在庁官人として周防介、権介を世襲し(介は地方官の一つで守の次になる)、大内介と称し、ここから大内氏を名乗ったとされる。また鎌倉時代の末期には幕府の御家人となり六波羅評定衆にもなっている。のち山口に拠点を移し、山口を中心に中国地方、九州北部に勢力を伸ばしていくことになる。
大内義弘(1355-99)は室町幕府に従い、九州探題今川貞世(了俊、義元の先祖ではないが同族)の九州攻めに従軍し、1391年に山名氏清(いわゆる「六分一殿」)が足利義満に反乱した明徳の乱でも活躍し、1392年の南北朝合一にも仲介を務めた。周防・長門など六か国の守護となった義弘であったが、義満に警戒され、最後はその挑発に乗り堺で反乱するに至る。義満の討伐を受けた義弘は、堺に籠城一か月余で敗死し、これにより大内氏の勢力は一時的に後退する。
義弘の弟盛見(もりはる)が一族の争いを制して家督を継ぐと、幕府もこれを認め、周防・長門の守護職に復帰した。九州北部にも勢力を広げるが、少弐氏との戦いで戦死した。その後は義弘の子である持世と持盛の間に家督争いがあり、持世が勝利した。持世は周防・長門・豊前・筑前四か国の守護となり、少弐氏・大友氏と争うが、1441年、将軍足利義教が赤松満祐に殺される嘉吉の乱に巻き込まれて重傷を負い、それがもとで死去した。
二代あとの政弘は日明貿易をめぐって管領細川勝元と争い、四国伊予の河野氏を支援して細川氏と戦った。政弘の母は山名宗全の養女であり、1467年、応仁の乱が起こると、中国・九州の兵数万を率いて上洛し、西軍の山名宗全に与した。1470年、乱の最中に下関にあった叔父教幸が東軍に応じ反乱すると、政弘は陶弘護を派遣してこれを鎮圧させた。弘護は陶晴賢(隆房)の祖父に当たる。乱が終わると帰国し、安芸・石見にも勢力を伸ばした。1491年には上洛して、将軍足利義稙を援けて近江の六角高頼を討っている。政弘は文化にも造詣が深く、応仁の乱で荒廃した京から多くの公家や僧侶、芸術家を山口に招いた。水墨画家の雪舟が明に渡ったのも政弘の支援があってのものである。また政弘自身和歌に秀でており、宗祇の『新撰莵玖波集』にも多くの歌が選ばれている。
政弘の子義興は北九州で大友・少弐氏と戦う一方で、中央に進出する。1508年、山口で庇護していた足利義稙を擁して上洛、将軍義澄を追放して、義稙を将軍位に就け、みずからは管領代・山城守護となった。その後も中央での戦いが続くが、家臣たちには負担が大きく、領国では出雲の尼子経久が勢力を伸ばしてきたため、帰国して尼子氏と戦った。1523年には日明貿易をめぐる細川氏との争いが明の寧波(ニンポー)であり(寧波の乱)、一時日明貿易は中絶するが、その後は大内氏が貿易を独占するに至った。義興の子が義隆であり、義隆の代に大内氏は最盛期を迎えるが陶晴賢の反乱に遭って自害した。義隆については別項にて述べる。
宗家は滅亡したが、支流が生き残って、山口氏を称し、常陸牛久(うしく)藩主となって廃藩に至っている。牛久市は先日大関に昇進した稀勢の里の出身地として知られている。
大内氏・西日本最強の勢力
戦国時代における中国地方の歴史となると、最終的に中国地方を制覇した毛利元就をはじめとする、毛利氏中心の歴史になるのだが、毛利氏飛躍の転機となった陶晴賢との厳島の戦いを書き、さらにそれ以前、大内氏の歴史について語らなければならない。毛利氏も元は大内氏に仕える安芸の国人領主に過ぎなかったのである。
大内氏と言うと、文弱に流れた大内義隆が陶晴賢の謀叛に遭って自害し、実質的に滅んだ場面の印象が強く、今川義元や朝倉義景に近い分類をされているのではないかと思うが、戦国時代になって毛利氏や大友氏が台頭するまで、室町時代にあっては西日本における最大最強の勢力であったと言っていい。それは軍事力だけではなく、日明貿易による経済力、山口の文化都市としての繁栄など多くの範囲に渡る。
さて、大内氏は日本の氏族としては珍しく、「源平藤橘」につながらず(つなげておらず)、日本に仏教を伝えた(仏教公伝)百済の聖明王の第三子である琳聖(りんしょう)太子の子孫を自称している。これは朝鮮半島との貿易を有利にするためと言われているが、太子の存在自体は疑われており(記録にない)、実際は平安時代の多々良氏の末裔とされている。周防吉敷郡大内県に住み、また周防の在庁官人として周防介、権介を世襲し(介は地方官の一つで守の次になる)、大内介と称し、ここから大内氏を名乗ったとされる。また鎌倉時代の末期には幕府の御家人となり六波羅評定衆にもなっている。のち山口に拠点を移し、山口を中心に中国地方、九州北部に勢力を伸ばしていくことになる。
大内義弘(1355-99)は室町幕府に従い、九州探題今川貞世(了俊、義元の先祖ではないが同族)の九州攻めに従軍し、1391年に山名氏清(いわゆる「六分一殿」)が足利義満に反乱した明徳の乱でも活躍し、1392年の南北朝合一にも仲介を務めた。周防・長門など六か国の守護となった義弘であったが、義満に警戒され、最後はその挑発に乗り堺で反乱するに至る。義満の討伐を受けた義弘は、堺に籠城一か月余で敗死し、これにより大内氏の勢力は一時的に後退する。
義弘の弟盛見(もりはる)が一族の争いを制して家督を継ぐと、幕府もこれを認め、周防・長門の守護職に復帰した。九州北部にも勢力を広げるが、少弐氏との戦いで戦死した。その後は義弘の子である持世と持盛の間に家督争いがあり、持世が勝利した。持世は周防・長門・豊前・筑前四か国の守護となり、少弐氏・大友氏と争うが、1441年、将軍足利義教が赤松満祐に殺される嘉吉の乱に巻き込まれて重傷を負い、それがもとで死去した。
二代あとの政弘は日明貿易をめぐって管領細川勝元と争い、四国伊予の河野氏を支援して細川氏と戦った。政弘の母は山名宗全の養女であり、1467年、応仁の乱が起こると、中国・九州の兵数万を率いて上洛し、西軍の山名宗全に与した。1470年、乱の最中に下関にあった叔父教幸が東軍に応じ反乱すると、政弘は陶弘護を派遣してこれを鎮圧させた。弘護は陶晴賢(隆房)の祖父に当たる。乱が終わると帰国し、安芸・石見にも勢力を伸ばした。1491年には上洛して、将軍足利義稙を援けて近江の六角高頼を討っている。政弘は文化にも造詣が深く、応仁の乱で荒廃した京から多くの公家や僧侶、芸術家を山口に招いた。水墨画家の雪舟が明に渡ったのも政弘の支援があってのものである。また政弘自身和歌に秀でており、宗祇の『新撰莵玖波集』にも多くの歌が選ばれている。
政弘の子義興は北九州で大友・少弐氏と戦う一方で、中央に進出する。1508年、山口で庇護していた足利義稙を擁して上洛、将軍義澄を追放して、義稙を将軍位に就け、みずからは管領代・山城守護となった。その後も中央での戦いが続くが、家臣たちには負担が大きく、領国では出雲の尼子経久が勢力を伸ばしてきたため、帰国して尼子氏と戦った。1523年には日明貿易をめぐる細川氏との争いが明の寧波(ニンポー)であり(寧波の乱)、一時日明貿易は中絶するが、その後は大内氏が貿易を独占するに至った。義興の子が義隆であり、義隆の代に大内氏は最盛期を迎えるが陶晴賢の反乱に遭って自害した。義隆については別項にて述べる。
宗家は滅亡したが、支流が生き残って、山口氏を称し、常陸牛久(うしく)藩主となって廃藩に至っている。牛久市は先日大関に昇進した稀勢の里の出身地として知られている。
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