兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
002 太田道灌 【おおたどうかん】 1432-1486
002 太田道灌 【おおたどうかん】 1432-1486
名は資長(すけなが)。幼名は鶴千代、源六郎、左衛門大夫、正五位下備中守。
上杉家の支流である扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰を務める。約三十年間関東を中心にほぼ独力で戦い続け、扇谷上杉家の名を高める。江戸城を築いたと言えばこの人。
子供の頃から利発で、いくつかの逸話が残っている。父が「知恵が過ぎれば大偽に走り、足らねば災いを招く。障子はまっすぐ立っていてこそ役に立ち、曲がっていれば役に立たない」と戒めると、鶴千代は屏風を持ってきて「屏風はまっすぐ立っていては倒れてしまいます。曲がっていてこそ役に立つのです」と言い返した。
またある日、父が「驕者不久(おごれるものは久しからず)」と書くと、鶴千代は二字を書き足して「不驕者又不久(驕らざるものもまた久しからず)」とした。
後世の創作であろうが、道灌の才気とともに負けん気の強さがうかがえる逸話である。
1446年元服し、資長を名乗る。1456年(あるいは1457年)家督を譲られて太田家を継ぎ、扇谷上杉家の定正を補佐することになる。
さて、当時の関東は永享の乱、享徳の乱と呼ばれる、関東公方と関東管領の対立が続いていた。こうした対立の中で、1457年資長は江戸城を築く。時に今川家の家督争いにも介入(このときに北条早雲とも会ったという。従来の説では二人とも1432年生まれの同い年となる)、さらに長尾景春の乱にも対応、約三十年間に渡って、主家の扇谷上杉、関東管領の山内上杉家のために戦った。
こうして資長(道灌)の声望は高まったが、1486年、主君の上杉定正によって謀殺される。定正が道灌の威勢を恐れたとも、山内上杉顕定の謀略にかかったとも言われる。
定正は道灌を相模糟屋館に招くと、風呂場で暗殺してしまった。そのときに道灌が遺した最期の言葉が「当方滅亡」である。自分がいなくなれば扇谷上杉家は滅ぶという意味である。実際、道灌が殺されると、道灌の子資康を初め、扇谷上杉家に属していた多くの武将が山内上杉家へ走ってしまう。
1487年、両上杉家は決裂し、互いに争っている隙に北条氏が進出。北条早雲の孫である氏康によって扇谷上杉朝定は敗死。山内上杉憲政も北条氏に追われ越後の長尾景虎を頼り、上杉の家督と関東管領職を景虎に譲ることになる。
歌道にも通じており、「山吹の里」の逸話でも知られる。
道灌がにわか雨に遭い、農家で蓑を借りようとしたところ、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は蓑を借りようとしたのに、山吹の花を差し出されて憤然とした。しかしあとから家臣に聞いてみると、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」という歌にかけて、山の中の茅葺の家であり蓑(実の)一つすら持ち合わせておりません、という意味だったことを知る。古歌を知らなかったことを深く恥じた道灌は以後歌道に励んだという。ただし、この話は高校の古文の問題にも取り上げられるが、実話ではない。

Copyright © 2010-2012 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
2012年5月追加のシークレット。
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2012年5月追加のシークレット。
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