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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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前回の「戦国人物紹介」、亀井茲矩(これのり)というマイナー武将を取り上げて、その中で赤松氏の一族(斎村政広)に触れて、彼が援助していた藤原惺窩にまで筆が及びましたが、藤原惺窩は儒学者として有名な人物です。

歌道で有名な冷泉(れいぜい)家の出身で、ルーツをたどると藤原俊成(しゅんぜい、としなり)、藤原定家(ていか、さだいえ)父子、さらには藤原道長までさかのぼります。藤原惺窩は本姓の藤原氏を称しますが、冷泉家はその後も続いて、時雨亭文庫(しぐれていぶんこ)には古今和歌集や明月記などの国宝や重要文化財が多数所蔵されています。京都にあったことから、戦火も免れました。

さて、藤原惺窩ですが、下の名は「せいか」と読みますが、上は本姓の「ふじわら」ですから、本来は「ふじわらのせいか」と姓と名の間に「の」を入れて読むべきなのですが、通例で「ふじわらせいか」と呼ばれています。豊臣秀吉の「豊臣」も天皇から賜った姓ですから、「とよとみのひでよし」と呼ぶべき、あるいは実際にそう呼んだのではないか、という説、議論もあります。

前述の通り、藤原惺窩は冷泉家の出ですが、長男ではなかったため、出家して朱子学を学びました。近世の儒学の祖とされます(この当時は儒学=朱子学といってよい)。家康も儒学を講じ、仕えるよう依頼されたものの固辞し、弟子の林羅山を推挙します。この林羅山と言うのが阿諛追従(おべっか使い)の悪い学者で(笑)、大坂の陣の発端となった方広寺の鐘銘問題(「国家安康」「君臣豊楽」のこじつけというか言いがかり)は羅山の献策とされています。

秀吉には、足利義昭に自分を養子にするように頼んだが断られたため、関白職を望んだという俗説もありますが、これは林羅山の書いた『豊臣秀吉系譜』が出典とされています。源氏でなければ征夷大将軍になれないということはありませんし(藤原氏や皇族が征夷大将軍になった例がある)、幕府を開かなければ武家政権が開けないということもありません。秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、小牧・長久手の戦いで軍事的に敗北し、東国に勢力を拡げられなかったからにほかなりません。

信長は宣教師の説明で地球が球体であることを理解したと言いますが、羅山は納得できず、逆に宣教師を論破してしまったそうです。学者としては著名ですが、一風変わった逸話がいくつか残っています。

子孫は役職名から代々林大学頭(だいがくのかみ)を称し、江戸時代にあっては、文部科学大臣と東京大学総長を兼任したような立場になります。ちょっと遠いかな・・・林家(りんけ、と読む)の学問所が湯島聖堂にあって、湯島聖堂はのちに昌平坂学問所になって、これが東大の前身の一つとなります。

もう少し話を続けましょう。林家は学者の家系ですが、幕末に異色の人物を輩出しています。江戸の町民に「妖怪」と言われて恐れられた町奉行・鳥居耀蔵(ようぞう)という人物ですが、数奇な人生をたどったこの人については次回。
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