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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

マイナー武将編~近世大名となった尼子遺臣~

034 亀井茲矩 【かめいこれのり】 1557-1612

新十郎。湯永綱の子で、母は多胡辰敬の娘。辰敬は家訓の「命は軽く、名は重く」の一節が知られている。湯氏は自称宇多源氏佐々木氏流で尼子氏と同族となるが、紀伊の神官の出とも言われ、実際の出自は不詳である。幼くして尼子氏に仕えたようだが、1566年、十歳の時に主家が滅亡し、流浪の生活を送る。その後、尼子氏再興を目指す山中鹿之介と出会い、ともに活動することになる。鹿之介とは親密だったようで、その養女である亀井秀綱(尼子氏の重臣)の娘を娶り、亀井氏を名乗ることになった。

三度尼子氏再興の兵を挙げるが、そのたびに毛利氏の攻撃に遭い、1578年には尼子氏再興の旗頭であった尼子勝久が自害、山中鹿之介も殺された。茲矩は秀吉軍に従っていたため難を逃れ、その後は秀吉軍に属すことになる。秀吉の与力であった宮部継潤のもと、山陰方面で毛利氏と戦い、1581年には鳥取城攻めで戦功を挙げ、因幡鹿野城主として一万三千五百石を与えられた(この時点での石高には異説あり)。翌年、本能寺の変が起こると、秀吉とともに中国から反転、山崎の戦いの前に秀吉から恩賞について聞かれたところ、琉球を賜りたいと答えたという。琉球は当時日本の支配下にはなく、「琉球守」も律令制の官職にはないが、秀吉は家臣のこの手のパフォーマンスが好きで、茲矩は以後、琉球守(あるいは台州守)と呼ばれた。ただし、本能寺の変の時、実際には因幡を動いていない。1585年には従五位下武蔵守に任官されている。その後は九州攻め、小田原攻めに従軍。朝鮮出兵でも水軍を率いて渡海している。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍に属して丹後田辺城を攻撃した斎村政広(広英などとも。赤松政秀の子。儒学者の藤原惺窩と交流があったことで知られる)を東軍に寝返らせて、宮部長房(継潤の子)の因幡鳥取城を攻めさせた。ただ、政広は鳥取城下を焼き払った責任を取らされ、家康より自害を命じられた。この件は、茲矩が罪を着せたという説もあるが、いずれにせよ、播磨の名族であった赤松氏は関ヶ原の戦いで、宗家の赤松則房、支流の政広とも滅んだ。

茲矩は戦後加増され、三万八千石を領した。銀山の経営や干拓、用水など領国経営に手腕を発揮、また幕府の朱印状を得てシャム(現在のタイ)に貿易船を派遣している。子孫は石見津和野に移り、子孫相継いで廃藩置県に至った。津和野藩は石見半紙の生産で知られ、また大国隆正、福羽美静らの国学者、啓蒙思想家の西周(にしあまね)を輩出している。国民新党の亀井久興は茲矩の子孫である茲建の三男。
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