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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

トイレから脱出したイリュージョニスト

033 山中鹿之介 【やまなかしかのすけ】 1545-78

正確には「鹿介」だが、講談などの影響で「鹿之介」の方が知られている。立川文庫では「鹿之助」である。名は幸盛。尼子十勇士の一人。十勇士はみな名前に「介」の字がつくので、「尼子十介(かい)」とも言うが、諸本によって異同が多く、全員が実在したかどうかは疑わしい。

半月の前立に鹿の角の脇立のある兜をかぶり、三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った話は教科書にも掲載され、戦前は誰もが知っている有名人であった。主家再興に命を捧げる姿は忠義の手本とされ、武士道の鏡となった。ただし、尼子義久ら尼子氏の嫡流は毛利氏の「庇護」下にあって、江戸時代も存続を許されており、鹿之介らが何を目指したのかは微妙なところである。

鹿之介は尼子氏の血を引く山中満幸の二男として生まれ、病弱だった兄甚太郎に代わって山中家を継ぐ。1560年、十六歳の時に三日月に向かって「今日より三十日のうちに武勇の誉れを得さしめたまえ」と祈ったところ、菊池音八という豪の者を一騎打ちで討ち取ることができた。1566年、毛利元就は尼子氏の本拠である月山富田城を攻めるが、このとき、鹿之介(鹿介)に対抗して狼介と名乗った品川大膳を一騎打ちで討ち取っている。鹿之介の武名は高まったが、尼子氏自体は毛利家に屈し、ここに戦国大名としての尼子氏は滅ぶことになった。

その後、京に入った鹿之介は東福寺に入っていた尼子勝久(新宮党の一人である誠久の子)を還俗させて尼子氏再興のために擁立。1568年に出雲に入ると、尼子遺臣を集めて勢力を拡げるが、1571年に拠点としていた新山城が陥落。鹿之介は吉川元春に捕らえられた。このときは、赤痢を装って一夜に何度も厠に通い、監視の油断を突いて、厠から抜け出したという。1572年、再起して信長を頼るが、本格的な支援は得られず、四年後には敗退する。この頃の信長は畿内の戦いに追われて、鹿之介を支援する余裕はなかったのである。見方によっては、戦線維持の時間稼ぎのために捨て駒として使われたというところである。

1577年、再び信長を頼ると、羽柴秀吉のもとに配属されて播磨上月城に入り、三度尼子氏の再興を図るが毛利軍に包囲され、信長の支援もなく開城。勝久は自害し、捕らわれた鹿之介も安芸に送られる途中、備中の阿井の渡しで殺された。長男の山中幸元は鴻池新六と称して酒造業を営んで財をなし、のちの鴻池財閥の祖となるという(旧三和銀行の前身の一つ)



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頼山陽に「虎狼の世界に麒麟を見る」と評され、「山陰の麒麟児」とも称されるが。
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