兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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甲斐武田氏に行く前にコラムを2つ。少し寄り道していきましょう。
■常陸と会津の地理的重要性
■常陸と会津の地理的重要性
常陸の佐竹氏、会津(陸奥南部)の蘆名氏の話をしましたが、もう少し広い視点で見てみるとどうでしょうか。
関東、東北地方には秀吉から停戦命令(私戦禁止命令、惣無事令と言われる)が出されていましたが、伊達政宗はこれを無視したまま戦線を拡大し、蘆名氏を滅ぼして会津を手に入れました。しかし、これは命令を無視したものとして小田原攻め後に、会津の所領は没収されました。
一方で、佐竹氏は江戸氏など常陸国内の勢力を攻めていますが、秀吉からのとがめはありませんでした。秀吉が佐竹氏の勢力拡大に寛容であったのは、北条氏のあとに関東に入った徳川氏、および伊達氏の牽制を考えていたためと言われています。
秀吉が政宗から没収した会津は関東にも奥州にもにらみのきく重要な地でしたが、これは蘆名氏(実質的には佐竹氏)には返還せず、みずからの家臣であった蒲生氏郷を入れています。
江戸時代になると、常陸には家康の子頼房に始まる水戸徳川家、会津には秀忠の子(保科)正之に始まる会津松平家が入りますから、この二つが秀吉にも家康にも東国支配において重要な地であったことがうかがわれます。
■佐竹義宣 【さたけよしのぶ】 1570-1633
全身甲冑姿の肖像画がかっこいい義宣ですが、評価はあまり高くないのはやむを得ないところです。
秀吉の暗黙の了解のもと、常陸統一に成功した佐竹氏は、本家が五十四万石となり、一族を配した岩城氏、多賀谷氏、蘆名氏(佐竹義広)、与力の相馬氏の所領まで含めると八十万石を超える大身となりました。一説に、徳川、前田、毛利、上杉、島津と並んで六大将に数えられたと言います。
検地に当たった三成が、佐竹氏の石高を八十万石から五十四万石に「まけて」軍役を軽くしたというのは、このへんの石高が混同されたものではないかと考えますが、三成と佐竹義宣(義重の子)の親交は事実だったようです。
秀吉の死後、いわゆる福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃したときには、徳川家康、宇喜多秀家らとともに三成を救出しています。「治部(三成)が死んでは生きている価値がない」とまで言ったそうですから、二人の仲がうかがわれます。
律義で知られる家康も、義宣のことは「困ったほどの律儀者」と評しており、義理堅い一方で融通のきかない面もあったのでしょう。関ヶ原の戦いでも三成方に味方しようとしたため、戦後、佐竹氏は常陸五十四万石から出羽秋田二十万石へ減転封されることになります。
安房の里見氏もそうですが、江戸に近い常陸に勢力を持った佐竹氏ですから、関ヶ原で東軍に属したとしても、いずれ領知替えになった可能性はありそうです。そこには天下を治める幕府の意思が働きますから、佐竹義宣だけを評価しても一方しか見ていないことになります。義宣に低い評価を与えることは簡単ですが、彼の意思だけではどうにもならなかった要素もあります。
そこまで理解して行動できれば父親並みの評価にはなったのでしょうが・・・。
秀吉の死後、いわゆる福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃したときには、徳川家康、宇喜多秀家らとともに三成を救出しています。「治部(三成)が死んでは生きている価値がない」とまで言ったそうですから、二人の仲がうかがわれます。
律義で知られる家康も、義宣のことは「困ったほどの律儀者」と評しており、義理堅い一方で融通のきかない面もあったのでしょう。関ヶ原の戦いでも三成方に味方しようとしたため、戦後、佐竹氏は常陸五十四万石から出羽秋田二十万石へ減転封されることになります。
安房の里見氏もそうですが、江戸に近い常陸に勢力を持った佐竹氏ですから、関ヶ原で東軍に属したとしても、いずれ領知替えになった可能性はありそうです。そこには天下を治める幕府の意思が働きますから、佐竹義宣だけを評価しても一方しか見ていないことになります。義宣に低い評価を与えることは簡単ですが、彼の意思だけではどうにもならなかった要素もあります。
そこまで理解して行動できれば父親並みの評価にはなったのでしょうが・・・。
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