兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■中国地方の戦い
NHKの大河ドラマ「毛利元就」では緒方拳が謀将尼子経久を演じていました。
毛利にやられる弱いイメージが先行する尼子ですが、その尼子にだって強い時代が。
032 尼子経久 【あまごつねひさ】 1458-1541
「尼子」は濁って「あまご」と読む。下剋上の典型。宇多天皇の子孫である近江佐々木源氏の一族で京極氏や六角氏とは同族になる。バサラ大名として知られる佐々木高氏(道誉)の孫である高久が近江犬上郡尼子郷を与えられて尼子氏を称す。高久の子持久が京極氏の守護代として近江から出雲に入ったと言われるがはっきりしない。持久の子清定(清貞)も出雲守護代として京極氏を助け、応仁の乱で京極氏が不在となると出雲で勢力を拡大する。
その子経久も守護代を継ぐが、社寺領を押領したり、幕府領の関銭徴収を怠ったりしたため、1484年、守護の京極政経によって守護代職を剥奪され、反尼子派の国人たちによって居城月山富田(がっさんとだ)城を追われた。しかし二年後には謀略をもって城を奪回する。ただし、このあたりは後世の軍記物の脚色が入っており、実情ははっきりしないが、覇権確立までは曲折があったようである。
1508年には後に敵対する大内義興(当時の西国の大大名、義隆の父)に従って上洛し、足利義稙を将軍に擁立する。帰国後は石見、伯耆、安芸、石見などにも勢力を伸ばし、十一カ国の太守と称されるが、実際、確保していたのは出雲と隠岐、伯耆くらいで、他は各地の大名との戦いが続いていた。1530年には三男の興久が反乱を起こし、鎮圧まで四年を要している。大内氏ともいったん和睦したあと再度戦いが続いており、1540年から翌年まで安芸吉田郡山城の毛利氏をめぐって戦うが、撤退する。この戦いは優勢だった尼子氏の勢力が衰え、大内氏の勢力が再び伸張し、毛利氏の地位が確立した戦いとされる。
経久の死後は孫の晴久が継ぎ、叔父の国久率いる新宮党が武力でこれを補佐するが、毛利元就の謀略にかかった晴久は新宮党を誅殺してしまう。これにより尼子氏はみずから衰退し、最終的に毛利氏に滅ぼされる。孫が跡を継いで、その孫を叔父が補佐するのは毛利氏と同じだが、一族の不和が尼子氏を滅ぼしたのは毛利氏と対照的である。皮肉なことに、尼子氏再興のために、山中鹿之助が擁した尼子勝久は新宮党の生き残りであった。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
大河ドラマ「毛利元就」では尼子経久が元就の師であるような描かれ方をしていたが、
戦国最高の謀将・毛利元就に示唆を与える人物であっただろうことは想像に難くない。
尼子晴久 【あまごはるひさ】 1514-60
出雲・隠岐・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作八カ国の守護。毛利元就と戦うが、元就の謀略にかかって一族の新宮党(国久ら)を滅ぼし、尼子氏の衰退に拍車をかけてしまう。元就との戦いの最中に月山富田城内で急死。

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■中国地方の戦い
NHKの大河ドラマ「毛利元就」では緒方拳が謀将尼子経久を演じていました。
毛利にやられる弱いイメージが先行する尼子ですが、その尼子にだって強い時代が。
032 尼子経久 【あまごつねひさ】 1458-1541
「尼子」は濁って「あまご」と読む。下剋上の典型。宇多天皇の子孫である近江佐々木源氏の一族で京極氏や六角氏とは同族になる。バサラ大名として知られる佐々木高氏(道誉)の孫である高久が近江犬上郡尼子郷を与えられて尼子氏を称す。高久の子持久が京極氏の守護代として近江から出雲に入ったと言われるがはっきりしない。持久の子清定(清貞)も出雲守護代として京極氏を助け、応仁の乱で京極氏が不在となると出雲で勢力を拡大する。
その子経久も守護代を継ぐが、社寺領を押領したり、幕府領の関銭徴収を怠ったりしたため、1484年、守護の京極政経によって守護代職を剥奪され、反尼子派の国人たちによって居城月山富田(がっさんとだ)城を追われた。しかし二年後には謀略をもって城を奪回する。ただし、このあたりは後世の軍記物の脚色が入っており、実情ははっきりしないが、覇権確立までは曲折があったようである。
1508年には後に敵対する大内義興(当時の西国の大大名、義隆の父)に従って上洛し、足利義稙を将軍に擁立する。帰国後は石見、伯耆、安芸、石見などにも勢力を伸ばし、十一カ国の太守と称されるが、実際、確保していたのは出雲と隠岐、伯耆くらいで、他は各地の大名との戦いが続いていた。1530年には三男の興久が反乱を起こし、鎮圧まで四年を要している。大内氏ともいったん和睦したあと再度戦いが続いており、1540年から翌年まで安芸吉田郡山城の毛利氏をめぐって戦うが、撤退する。この戦いは優勢だった尼子氏の勢力が衰え、大内氏の勢力が再び伸張し、毛利氏の地位が確立した戦いとされる。
経久の死後は孫の晴久が継ぎ、叔父の国久率いる新宮党が武力でこれを補佐するが、毛利元就の謀略にかかった晴久は新宮党を誅殺してしまう。これにより尼子氏はみずから衰退し、最終的に毛利氏に滅ぼされる。孫が跡を継いで、その孫を叔父が補佐するのは毛利氏と同じだが、一族の不和が尼子氏を滅ぼしたのは毛利氏と対照的である。皮肉なことに、尼子氏再興のために、山中鹿之助が擁した尼子勝久は新宮党の生き残りであった。
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大河ドラマ「毛利元就」では尼子経久が元就の師であるような描かれ方をしていたが、
戦国最高の謀将・毛利元就に示唆を与える人物であっただろうことは想像に難くない。
尼子晴久 【あまごはるひさ】 1514-60
出雲・隠岐・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作八カ国の守護。毛利元就と戦うが、元就の謀略にかかって一族の新宮党(国久ら)を滅ぼし、尼子氏の衰退に拍車をかけてしまう。元就との戦いの最中に月山富田城内で急死。
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