兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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大河ドラマには間に合わせましたw
「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(後編)
日本最高の野戦指揮官
それにしても、本戦で見せた家康の指揮官としての冴えである。誤算があろうと、戦いで勝たなければ天下取りに立ち上がった意味がない。家康も三万の徳川軍を率いていたが(旗本だけの兵で兵力として機能しなかっただろうという説は疑問)、秀忠軍が間に合わず、豊臣恩顧の大名の力を借りて戦に勝利することは、戦後の論功行賞で彼らに多くの領地を割かざるを得ない。福島や加藤といった豊臣恩顧の大名をどう扱うかという課題は秀忠、家光の代まで持ち越されることになるのだが。
この問題を抱えながら、秀忠軍の到着を待たず、決戦を強いて、わずか一日で勝利したことは戦機を見るに敏であったと言うほかない。先述のように、西軍には本戦に参加した軍以外にも軍勢がおり、中でも立花宗茂らの軍は本戦当日に大津城を落としているのである。秀忠軍を待っていたずらに開戦を先延ばしにすれば、戦意旺盛な立花宗茂らの軍勢一万五千が加わり、大きな脅威になったことは間違いない。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
鎮西の名将。高橋紹運の子で立花道雪の養子。「西の立花、東の本多(忠勝)」と謳われた。
本戦に参加していれば戦況を左右していたかもしれない。
逡巡する小早川秀秋
さらには戦闘中における小早川秀秋に対する恫喝とも言える発砲行為である。一歩間違えば、秀秋を敵に回しかねない行動である。もともと秀秋は親家康の立場であった。朝鮮出兵の軽率な行動で減封されそうになるところを家康のとりなしで救われている。成り行きで伏見城を攻めることになったため、家康に敵対することとなったが、伏見城落城後は去就が定まらず(三成に関白職を提示されたため、どちらに属すか迷ったとも言われる)、伊勢攻めにも加わらず、近江のあたりをうろうろして、最後は関ヶ原の戦場の南西にある松尾山の新城に、すでにいた西軍部隊を押しのけて入城した。三成としても本当に西軍に属しているのか不審だったであろう。大谷吉継も秀秋の動きには警戒していた。もちろん、家康も秀秋には東軍に属すよう工作しており、秀秋の陣中にも奥平貞治を目付として派遣していた。とにかく、家康の発砲が秀秋を東軍に味方させることになったのだから(銃声は聞こえなかったという説もあるが)、このあたりの駆け引きは巧みであると言わざるを得ない。

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警戒していた小早川秀秋の攻撃を受け、一時は押し戻すものの多勢に無勢で壊滅、
武将としては戦場でただ一人自刃。
補足
家康の率いる軍勢と秀忠の率いる軍勢は道を分かった時点でそれぞれ別々の備え(軍勢の配置)を成しており(状況に応じて再編成したはずである)、どちらが主力かという議論は意味がない。家康の率いた軍勢は旗本ばかり三万で弱かったという説もあるが、軍勢を率いるだけの武将はそろっており、弱兵と見なすことはできない。
「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(後編)
日本最高の野戦指揮官
それにしても、本戦で見せた家康の指揮官としての冴えである。誤算があろうと、戦いで勝たなければ天下取りに立ち上がった意味がない。家康も三万の徳川軍を率いていたが(旗本だけの兵で兵力として機能しなかっただろうという説は疑問)、秀忠軍が間に合わず、豊臣恩顧の大名の力を借りて戦に勝利することは、戦後の論功行賞で彼らに多くの領地を割かざるを得ない。福島や加藤といった豊臣恩顧の大名をどう扱うかという課題は秀忠、家光の代まで持ち越されることになるのだが。
この問題を抱えながら、秀忠軍の到着を待たず、決戦を強いて、わずか一日で勝利したことは戦機を見るに敏であったと言うほかない。先述のように、西軍には本戦に参加した軍以外にも軍勢がおり、中でも立花宗茂らの軍は本戦当日に大津城を落としているのである。秀忠軍を待っていたずらに開戦を先延ばしにすれば、戦意旺盛な立花宗茂らの軍勢一万五千が加わり、大きな脅威になったことは間違いない。
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鎮西の名将。高橋紹運の子で立花道雪の養子。「西の立花、東の本多(忠勝)」と謳われた。
本戦に参加していれば戦況を左右していたかもしれない。
逡巡する小早川秀秋
さらには戦闘中における小早川秀秋に対する恫喝とも言える発砲行為である。一歩間違えば、秀秋を敵に回しかねない行動である。もともと秀秋は親家康の立場であった。朝鮮出兵の軽率な行動で減封されそうになるところを家康のとりなしで救われている。成り行きで伏見城を攻めることになったため、家康に敵対することとなったが、伏見城落城後は去就が定まらず(三成に関白職を提示されたため、どちらに属すか迷ったとも言われる)、伊勢攻めにも加わらず、近江のあたりをうろうろして、最後は関ヶ原の戦場の南西にある松尾山の新城に、すでにいた西軍部隊を押しのけて入城した。三成としても本当に西軍に属しているのか不審だったであろう。大谷吉継も秀秋の動きには警戒していた。もちろん、家康も秀秋には東軍に属すよう工作しており、秀秋の陣中にも奥平貞治を目付として派遣していた。とにかく、家康の発砲が秀秋を東軍に味方させることになったのだから(銃声は聞こえなかったという説もあるが)、このあたりの駆け引きは巧みであると言わざるを得ない。
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警戒していた小早川秀秋の攻撃を受け、一時は押し戻すものの多勢に無勢で壊滅、
武将としては戦場でただ一人自刃。
補足
家康の率いる軍勢と秀忠の率いる軍勢は道を分かった時点でそれぞれ別々の備え(軍勢の配置)を成しており(状況に応じて再編成したはずである)、どちらが主力かという議論は意味がない。家康の率いた軍勢は旗本ばかり三万で弱かったという説もあるが、軍勢を率いるだけの武将はそろっており、弱兵と見なすことはできない。
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