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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(中編)

展開する両軍
下野の小山会議で、会津攻めに従った軍勢の大半が(豊臣家の家臣である)家康と行動を共にし、(豊臣家の家臣である)三成らを討つことを約した。その後、家康は江戸に戻ったが、秀忠は宇都宮に残り、上杉勢に備えた。この時点で、この方面の総大将は秀忠である。家康の二男結城秀康がこの任に代わったのはこれより一ヶ月ほど後のことで、秀忠は三万余の軍勢を率いて西に向かうことになる。

関ヶ原の戦いというと、九月十五日の美濃関ヶ原での決戦だけを思い浮かべがちだが、両軍は各地で戦闘を繰り広げていた。言うまでもなく、東北では上杉家と最上家が戦っていたし、九州では黒田如水が大友家旧臣と戦っていた。畿内でも複数の場所で戦いがあった。家康家臣の鳥居元忠らが籠城する伏見城を落城させた西軍の一部はその後、伊賀、伊勢に進軍し、伊賀上野の筒井定次(順慶の養子)、伊勢安濃津の富田信高らを降伏させ、関ヶ原へと向かった。このほか、丹後では細川幽斎(忠興の父)がこもる田辺城を小野木重次(公郷)ら一万五千の兵が囲み(のちに勅命により講和、開城)、京極高次(室は淀殿の妹、江の姉)の近江大津城は立花宗茂ら一万五千の兵が攻めていた(本戦当日に開城)。東軍も秀忠の軍勢が中山道を進んでいたが、本戦には間に合わず、両軍とも戦力の集中に成功したとは言えない。天下を二分した戦いがわずか一日で終わると考えていなかったこともあろう。現に決戦以前に大垣城を前に対陣が続いていたし、小牧長久手の戦いでも両軍の対陣が半年に及んでいる。



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芸は身を助く。

秀忠軍の行動
秀忠軍の当初の目的は中山道筋の西軍の攻撃で、これはいうまでもなく、真田昌幸のこもる信濃上田城を攻略することである。上田城は中山道からは離れており、この城を落とさなければ西に向かえないという位置にはない。昌幸の挑発によって秀忠軍が上田に向かったわけではなく、秀忠軍はみずから上田城の攻略に向かったのである。

しかし、美濃方面での情勢が急変する。攻略に時間を要すると思われていた西軍方の岐阜城がわずか一日で陥落したのである(城主は織田秀信。幼名三法師、信長の嫡孫)。決戦の機運が高まり、家康は秀忠へ西上を促す使者・大久保忠益(忠世、忠佐兄弟のいとこに当たる)を送るが、忠益は大雨に阻まれて秀忠の元へ到着するのが遅れてしまった。秀忠の元に着いたのが九月の九日で、本戦まで一週間しかない。秀忠が西へ向かった時点で、すでに本戦に間に合うことは不可能だった。これを真田昌幸が戦巧者だったとか、秀忠が指揮官として無能だったと評価するのは誤りである。秀忠の責任ではない。



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上田城で二度、徳川軍を退けた「徳川キラー」であることは間違いない。
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