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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

マイナー武将特集やりたいなあ・・・。

031 朽木元綱 【くつきもとつな】 1549-1632

弥五郎、信濃守、従五位下河内守。

朽木氏は近江源氏(宇多天皇の子孫)佐々木氏の庶流。『太平記』で知られる婆娑羅(バサラ)大名佐々木道誉(どうよ)、六角氏、京極氏などとは同族になる。佐々木信綱の二男高島高信の孫義綱が近江朽木谷に移り、朽木氏を称したことに始まる。若狭と京を結ぶ若狭街道の要衝に当たり、子孫は室町幕府に仕え、幕府直属の奉公衆として将軍を助けた。足利義晴や義輝など将軍が京を逃れたときに朽木氏を頼ったこともある。祖父稙綱、父晴綱の名はいずれも将軍からの偏諱である。

1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めると義弟(妹であるお市の方の夫)浅井長政が信長から離反。信長はわずかな手勢とともに朽木越えで京を目指す。元綱は浅井氏に属していたが、松永久秀の説得に応じて信長を京まで嚮導した。その後は近江高島郡を領した磯野員昌、津田信澄(信長の弟信勝、一般的に「信行」で知られる、の子)に属する。

秀吉政権下でも所領を安堵されるが、次に名前が見えるのは関ヶ原の戦いにおいてである。西軍の招きに応じて本戦に参加し大谷吉継の軍勢に加わるが、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保とともに藤堂高虎を通じてひそかに東軍に誼を通じ、小早川秀秋が西軍部隊を攻撃すると、東軍に寝返り、他の三将とともに大谷吉継らを破った。ついで秀秋らと三成の居城であった近江佐和山城を攻撃する。戦後、朽木庄など九千五百石余を安堵された(戦前の二万石からすると減封になる)。大坂冬の陣にも従軍する。八十四歳の長命を保った。

死後、所領は三子に分割される。長男宣綱は六千石余を領する旗本となるが、宣綱の子は母(京極高吉の娘)の実家である京極家を継いで京極高通と名乗り、丹後峰山一万三千石の大名となった。三男稙綱は下野鹿沼で一万石を領する大名に取り立てられ、子孫は丹波福知山三万二千石で定着。



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2012年3月追加。ここで取り上げられたマイナー武将がカードになるとうれしいですね。画像も戦国乱世を生き抜いた元綱のイメージ通りではないでしょうか。

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