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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

似た者同士とはいえ、信長と久秀では信長の方が明らかに実力が上である。天下統一を進めていく信長を久秀はどう見ていたのだろうか。

030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77.10.10 (中編)

1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、義弟の浅井長政が離反。信長は金ヶ崎城に秀吉らを殿軍(しんがり)として置き、琵琶湖の西、朽木越えで京を目指した。このとき、朽木谷の領主である朽木元綱を説いて信長に味方させたのが久秀である。逆に説けば信長を抹殺する絶好の機会であったのだが。しかし、信長に従順だったのはこの頃までで、翌年、信玄の西上が近づくと謀反の虫がうずいたのか、これに通じて徐々に信長から離反。1573年、足利義昭が信長に兵を挙げると、ともに反抗する。しかし、信玄は西上の途中で病死、武田軍は撤退する。足利義昭も敗れて京を追放され、久秀も大和の多聞山城を差し出して再び信長に降伏、剃髪して動意と号する。再度赦された久秀だが、地位は低下し、佐久間信盛の与力として大坂の本願寺攻めに加わることになる。

1577年、最後に叛いたのは謙信の上洛を期待してのものとされる。手取川の戦いで上杉軍が勝利する直前の謀反だが、上杉軍には上洛するだけの実力も計画もなく、久秀にしては勝算が薄いのに決起したという感じである。むしろ、織田家での地位が低下する中、信長に構ってほしくて謀反したのではないかとさえ思える。信長も松井友閑を派遣して理由を問いただそうとするのだが、久秀は会おうともしなかった。やむなく、信長は嫡子信忠に信貴山城を囲ませるのだが、平蜘蛛の茶釜を差し出せば赦すと、信長にしては寛大な条件を出している。しかし、久秀はこれを断ると、平蜘蛛の茶釜を粉々に叩き割って(あるいは爆破し)、切腹、爆死したという。死んだのは十月十日で、大仏殿が焼けた日のちょうど十年後であったことから、世の人は天罰だと噂しあったという。

人質であった久秀の孫二人(久通の子)は処刑されたが、歌人の松永貞徳も孫に当たる(養子をはさむようだが)。1581年、京で馬揃えがあったときに、当時十一歳の貞徳も見物に並んでいたが、そこで馬揃えの行列が詰まったことに怒る信長の大音声を聴いたという話が残っている。その子が朱子学者の松永尺五。



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ボンバーマン。
爆死は火薬あってのもので、当時の最先端のスタイルだが、のちに信長も本能寺で真似ている。

古天明平蜘蛛 【こてんみょうひらぐも】

下野安蘇郡天明から産出した鉄から作った茶釜を「天明釜」といい、このうち正長から天文年間のものを「古天明」、慶長年間のころまでのものを「後天明」と呼ぶ。「平蜘蛛」の名は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていることから、あるいは、湯がわいてくると、釜の底に鋳された蜘蛛が生きてうごめくように見えたことから名付けられたともいう。

久秀は信長には「この平蜘蛛と白髪首は渡さぬ」と釜に火薬を詰め、鎖で首からかけ、釜とともに爆死したという。一方、釜は現存している(戦後、がれきの中から探し出して修復した)という説もあり、私も写真で見たことがある。蜘蛛が這いつくばっているような形にはあまり見えない。それにしても、名器の価値がわかる人が名器を壊すだろうか。
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