兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■戦国時代の幕開け
001 北条早雲 【ほうじょうそううん】 1432?-1519
伊勢新九郎長氏。早雲庵宗瑞。
五代、約百年にわたって関東を治めた北条氏を、鎌倉時代に執権を務めた北条氏と区別して「後北条氏」とも呼ぶが、当時そのように呼ばれていたわけではない。
また、北条早雲も自身は伊勢氏を名乗り、北条氏と名乗ったのは二代目氏綱のときである。
一介の素浪人が戦国大名に成り上がった下剋上の典型、と長く信じられてきたが、最近の研究では、室町幕府の政所執事・伊勢氏の出身とされている。実名は盛時、また、生年も24年繰り下がって1456年という説もある。
伊勢氏の支流である備中伊勢氏の出で、母は伊勢貞国(伊勢貞親の父)の娘。
伊勢貞親は足利義政(八代将軍、銀閣寺をはじめ東山文化で有名)の教育係を務め、幕政にも関与した。子孫は本能寺の変で明智方に属し衰退するが、のち幕臣となり礼法を伝えた。
早雲は幕府にも仕えたとされるが、妹(もしくは姉)北川殿が嫁いでいた今川義忠(義元の祖父)が横死すると、家督をめぐって家中が混乱する。そこで早雲は駿河へ下り調停し、北川殿の子氏親を今川家の家督につける。この功績により駿河東部の一部を与えられ、興国寺城に入る。1487年から1489年頃の出来事である。
1493年(1491年とも)伊豆に侵攻し堀越公方足利茶々丸を追い、伊豆の韮山城を本拠地として、民の税を軽くする(当時一般的であった五公五民から四公六民にしたという)などの政治を行う。早雲の戦国大名としての本格的な始まりであり、戦国時代の幕開けと評される。
この頃、早雲が見た夢が「二本の大きな杉の木をネズミが食い倒し、ネズミは虎に変じる」というものであるが、これは二本の杉が関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏を指し、ネズミは子年生まれの早雲のことである。この頃関東では上杉氏同士が争っており、早雲はその隙に乗じて勢力を伸ばす。早雲が狙ったのは相模の小田原城である。
伝わる話はこうである。
小田原城主の大森藤頼は早雲を警戒していたが、早雲はたびたび贈り物をしたため藤頼も警戒を解くようになった。ある日、早雲は鹿狩りをするため藤頼の領内に勢子(せこ、狩りのときに獲物を狩り出す人)を入れさせてほしい、と依頼する。藤頼は承諾するが、早雲が入れたのは勢子に仕立てた兵士であった。夜になって兵は小田原城へ迫り火を放つなど攻め込む姿勢を見せたため、小田原城内は大混乱に陥り、藤頼は城外へ逃げ出してしまい、早雲はやすやすと小田原城を手に入れたという。ただ、似たような話はほかにもあり、どこまでが真実かはわからない。起きた年も1495年が一般的だが異説もある。
以後も諸勢力の間で着々と相模制圧を進め、1516年には三浦氏を討って相模一国を平定した。今川家の調停からの一連の出来事については中央、関東の諸勢力との連携説もある。ただし、早雲自身は何らの公的役職にはついておらず、実力で国を治められた背景には民衆の支持もあったと考えられる。戦国大名のさきがけとしての評価はゆるぎないところである。
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