兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。

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目が緑色に光っています・・・。
長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。

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元親の嫡男として将来を期待されたが戦死。長宗我部家の家運が傾くきっかけとなる。
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。
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長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。
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元親の嫡男として将来を期待されたが戦死。長宗我部家の家運が傾くきっかけとなる。
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