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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

有職読み
歴史小説家としても知られる松本清張の下の名前は「せいちょう」と読むが、これはペンネームで、本名は「きよはる」である。平安時代の書家である三蹟(さんせき)とは藤原佐理、藤原行成、小野道風のことであり、彼らの下の名前はそれぞれ「すけまさ」「ゆきなり」「みちかぜ」と読むが、「さり」「こうぜい」「とうふう」と読まれることが多い。このように名前を音読みすることを有職(ゆうそく)読みという。本名を読むことを忌んだ(避けた)一つの例である。文人に使われることが多いが、木戸孝允(たかよし、こういん)のように政治家にも使われることがある。本稿の三好長慶も「ながよし」が本来の読みであるが、「ちょうけい」と呼ばれることも多い。別に誤りではない。私も昔からもっぱら「みよしちょうけい」と呼んでいた記憶がある。

029 三好長慶 【みよしながよし】 1523-64

三好氏は小笠原氏の支流で四国の阿波三好郡を本拠とした。長慶は元長の嫡男で幼名は千熊丸、通称は孫次郎。名はほかに利長、範長とも。修理大夫、筑前守。幕府御供衆、相伴衆。

父の復讐
この人の人生は殺された父の仇討ちから始まる。長慶の父元長は細川晴元(養子をはさむが、系図的には応仁の乱の細川勝元の曾孫に当たる)の重臣であったが、晴元から恐れられるほどの勢力を持っていた。元長の一族であった三好政長は元長とそりが合わなかったことから晴元に讒言したため、晴元は木沢長政や一向一揆とともに元長を攻め殺してしまった。さらに政長は元長が代官を務めていた河内の所領を奪ってしまう。1532年、長慶十歳の時である。長慶は幼少を理由に命を助けられ、晴元の臣下として隠忍の生活を続けることになる。

1539年、淡路で勢力を蓄えた長慶は十八歳で兵二千五百を率いて上洛。晴元に河内の代官領を要求するが、晴元が拒否したため、両者の間に戦端が開かれた。その後、両者は和睦し、長慶は摂津半国の守護代、越水城主となった。ついで父の仇の一人である木沢長政を破る。晴元の被官として各地で戦うが、1548年、三好政長を除くべく、同じ細川氏の氏綱を擁立して晴元に反旗を翻した。翌年、政長を敗死させ、晴元を京から追うことに成功する。父が殺されてから十七年後のことであった。

三好政権の樹立と崩壊
以後も晴元との戦いは続き、晴元が擁立する将軍足利義輝とも戦っている。1553年、摂津芥川城に本拠を移し、本格的に畿内の支配に着手。この頃が長慶の絶頂期で、京に義輝を迎え、細川氏綱を管領とし、幕府の実権を掌握した。畿内五カ国のほか、本拠である阿波や讃岐、淡路などに一族諸将を配し統治した。しかし、摂津などで諸勢力との戦いが続く。

そんな中、1561年に末弟十河一存(そごうかずなが、かずまさ)が三十代の若さで病死。さらに翌年、弟の三好義賢が畠山高政、根来寺僧兵と戦って戦死。1563年には長慶の子である義興がわずか二十二歳で病死。松永久秀の毒殺説もある。養子として十河一存の子義継を養子に迎えたが、病もあって政務を執らなくなり、最後に残っていた弟安宅冬康も久秀の讒言を受けて殺してしまう。冬康誅殺から間もなく、失意のうちに病死した。

次回は三好家の人々。長慶の覇業を援けた一族を取り上げます。



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管領細川氏に代わって権勢を誇るが、自身も家臣の松永久秀に実権を奪われた。
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