兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
「戦国人物紹介」、ナンバリングされた人物は27人ですが、関東三国志だけで100回近く書いてしまいました。北条は氏康の死まで、武田は滅亡まで、上杉は御館の乱まで書きました。北条、上杉の続きはまたいずれ。「関東三国志」編を終えて、「畿内の戦い」編に移ります。ナンバリングされた人物の紹介は実に三か月ぶり。
■畿内の戦い
028 足利義輝 【あしかがよしてる】 1536-65
室町幕府の十三代将軍(1546-65)。父は十二代義晴、母は関白近衛尚通の娘慶寿院。最後の将軍義昭は同母弟になる。幼名は菊童丸。初名は義藤。細川藤孝(幽斎)は「義藤」の偏諱である。
前振りとして、流浪する代々の足利将軍について書いてもいいのだが、この人で書きたいことは最期の場面だけである。
三好、松永の兵に二条御所を襲われると、義輝の家臣たちは防戦に努め、義輝の脱出を図った。しかし、義輝は逃れ難しと覚ると、みずから刀を振るって応戦することを決めた。数人を斬ると刀はなまくらになってしまう。そこで義輝は足利家秘蔵の名刀を鞘から抜いて床に並べて突き立て、刀が切れなくなると別の刀に取り替えてまた戦ったという。将軍の思わぬ奮闘に三好、松永の兵も攻めあぐねたが、最後は四方から襖を盾に動きを封じ、突き殺したという。御所は煙に包まれ、母親も自害した。将軍としては凄まじい最期である。
将軍とは、言うまでもなく武家の棟梁であるが、将軍自身が強い必要はない。むしろ将軍みずから戦うようでは負けである。とは言っても、将軍や戦国大名に武芸の嗜みがなかったわけではない。信長が弓や鉄砲を習ったことは知られているし、家康も鉄砲や剣術に巧みであったという。それにしても、義輝の剣術は嗜みの域を超えている。塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授され、上泉信綱からは兵法の講義を受けたというから、「殿様剣法」どころの話ではない。
書きたいのはここだけなのだが、そこに至るまでの経緯は書かねばなるまい。
義輝が生まれた当時の京は管領細川晴元の専権下にあったが、父である十二代将軍義晴と晴元はたびたび対立し、そのたびに義輝は義晴とともに近江坂本へ逃れる生活が続いた。1546年、父の将軍辞退により、わずか十一歳で将軍となり、晴元と和睦して京に戻った。しかし、その後、晴元の家臣であった三好長慶が細川氏綱を擁立するとこれに敗れ、今度は晴元とともに近江坂本に逃れ、堅田、朽木と各地を転々とする。1552年に細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶との和睦が成立し、京に戻るが、長慶との抗争はこの後も続いた。
1558年に京に戻ったあとは安定した地位を築き、各地の大名間の調停に乗り出したり、偏諱を与えたりするなど、幕府権威の上昇に努める。1564年に長慶が死んだが、翌年には三好三人衆、松永久秀が足利義栄(義輝の従弟)を擁立する。清水寺の参詣と称して上洛した彼らは目ざわりとなった二条御所の義輝を襲撃するのである。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
名刀蒐集家(コレクター)。道具は集めて眺めるものではなく、使ってこそのものである。秘蔵の名刀を存分に振るうことができて、案外満足だったのかもしれない。
1559年二月、尾張から上総介を称する男が上洛して、京の義輝に謁見、尾張の統一がほぼなったことを報告している。小説的に書けば、天下について談じ、意気投合したというところだろうか。義輝が健在であれば、この上総介信長が将軍候補を擁立して上洛することもなかっただろうから、この二人がともに戦った可能性は低いのだが、馬が合ったようだから見たかった気もする。
「戦国人物紹介」、ナンバリングされた人物は27人ですが、関東三国志だけで100回近く書いてしまいました。北条は氏康の死まで、武田は滅亡まで、上杉は御館の乱まで書きました。北条、上杉の続きはまたいずれ。「関東三国志」編を終えて、「畿内の戦い」編に移ります。ナンバリングされた人物の紹介は実に三か月ぶり。
■畿内の戦い
028 足利義輝 【あしかがよしてる】 1536-65
室町幕府の十三代将軍(1546-65)。父は十二代義晴、母は関白近衛尚通の娘慶寿院。最後の将軍義昭は同母弟になる。幼名は菊童丸。初名は義藤。細川藤孝(幽斎)は「義藤」の偏諱である。
前振りとして、流浪する代々の足利将軍について書いてもいいのだが、この人で書きたいことは最期の場面だけである。
三好、松永の兵に二条御所を襲われると、義輝の家臣たちは防戦に努め、義輝の脱出を図った。しかし、義輝は逃れ難しと覚ると、みずから刀を振るって応戦することを決めた。数人を斬ると刀はなまくらになってしまう。そこで義輝は足利家秘蔵の名刀を鞘から抜いて床に並べて突き立て、刀が切れなくなると別の刀に取り替えてまた戦ったという。将軍の思わぬ奮闘に三好、松永の兵も攻めあぐねたが、最後は四方から襖を盾に動きを封じ、突き殺したという。御所は煙に包まれ、母親も自害した。将軍としては凄まじい最期である。
将軍とは、言うまでもなく武家の棟梁であるが、将軍自身が強い必要はない。むしろ将軍みずから戦うようでは負けである。とは言っても、将軍や戦国大名に武芸の嗜みがなかったわけではない。信長が弓や鉄砲を習ったことは知られているし、家康も鉄砲や剣術に巧みであったという。それにしても、義輝の剣術は嗜みの域を超えている。塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授され、上泉信綱からは兵法の講義を受けたというから、「殿様剣法」どころの話ではない。
書きたいのはここだけなのだが、そこに至るまでの経緯は書かねばなるまい。
義輝が生まれた当時の京は管領細川晴元の専権下にあったが、父である十二代将軍義晴と晴元はたびたび対立し、そのたびに義輝は義晴とともに近江坂本へ逃れる生活が続いた。1546年、父の将軍辞退により、わずか十一歳で将軍となり、晴元と和睦して京に戻った。しかし、その後、晴元の家臣であった三好長慶が細川氏綱を擁立するとこれに敗れ、今度は晴元とともに近江坂本に逃れ、堅田、朽木と各地を転々とする。1552年に細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶との和睦が成立し、京に戻るが、長慶との抗争はこの後も続いた。
1558年に京に戻ったあとは安定した地位を築き、各地の大名間の調停に乗り出したり、偏諱を与えたりするなど、幕府権威の上昇に努める。1564年に長慶が死んだが、翌年には三好三人衆、松永久秀が足利義栄(義輝の従弟)を擁立する。清水寺の参詣と称して上洛した彼らは目ざわりとなった二条御所の義輝を襲撃するのである。
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名刀蒐集家(コレクター)。道具は集めて眺めるものではなく、使ってこそのものである。秘蔵の名刀を存分に振るうことができて、案外満足だったのかもしれない。
1559年二月、尾張から上総介を称する男が上洛して、京の義輝に謁見、尾張の統一がほぼなったことを報告している。小説的に書けば、天下について談じ、意気投合したというところだろうか。義輝が健在であれば、この上総介信長が将軍候補を擁立して上洛することもなかっただろうから、この二人がともに戦った可能性は低いのだが、馬が合ったようだから見たかった気もする。
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